きれいな上手さから教わる。

招待状をもらっていた、中学時代の美術の先生の絵が展示されている展覧会に、昨日行ってきた。先生の絵以外にも、膨大な量の会友の作品が並んでいた。プロメテウスがどうとか、宇宙がどうとか、何々の胎とか、やたらに衒学的で饒舌なタイトルが多かった。タイトルが絵以上に語り過ぎている感があった。
そしてそれら日曜画家たちの、その上手な色遣いや構図を観るにあたり、あらためてプロの画家というか、今までテレビや美術館で観てきた作品がどれほど優れているのかを思い知らされた。たとえばゴッホはかつては「情熱の画家」などと言われていたが、情熱「だけで」作品を描いてなどいない。彼が同僚ベルナールや弟テオに宛てた手紙を読んでいると、繰り返される色の実験、ミレーの模写なども含んだ習作による練習など、彼が冷静に絵を構想していたことがとてもよく伝わってくる。もちろん彼は「天才」だったのだろう。そういうDNAかなんかもあったのかもしれない。けれども、最終的には膨大な研究と練習の積み重ねが、彼の作品群を成立させた。しかも、他者から評価されなくて落胆しても諦めず、人間関係にトラブルをきたしても、精神科病院のなかでも、それでも描いた。死ぬ直前まで描いた。
ふだん絵画というときに、むしろ美術館に収められているような作品ばかりを観ていたので、それを当然のように受け取ってしまい、その制作の労苦について思いを馳せることが少なかった。日曜画家の「上手な」絵は、歴史上積み重ねられてきた美の営みの気の遠くなるような痛みと労苦について、逆説的に教えてくれている。