言葉と行為がひとつに

青木保著、『儀礼の象徴性』、岩波書店、2006を「Ⅱ儀礼のことば」まで読んだ。人類学の専門用語も出てくるのでとても難しいが、テーラワーダ仏教の、タイの仏教儀礼の分析には意義深い学びがあった。人類学者が「呪術」で片づけてしまうもの、あるいは聖─俗とかハレ─ケに二分してきた宗教を、彼はオースチンの行為遂行的言語という概念を用いて批判的に検討している。宗教儀礼において、語ることは行うことであり、聴くことも行うことであり、沈黙も積極的行為であり、また行為も言葉であるということ、それらを呪術としてしまうことは、そのゆたかな意味の理解を閉ざしてしまうこと。
テーラワーダ仏教儀礼においては、僧は、ブッダの教えに忠実に、その言葉と行為を実現している。一方、僧が語るパーリ語(古代語)の語りを、俗人は意味を理解しないままに沈黙して聴くことで、むしろ操作不可能なはずの日常に何らかの影響を与える体験を得る。つまり「御利益」である。それは呪術ではなく、そのような理解体系である。僧は呪術的な効果を狙って儀礼を行うのではないし、聴き手の俗人も、いつも自分に好都合な結果を得ると盲信しているわけでもない。だが、どちらも儀礼の枠組み自体を疑うことは決してない。その枠組みが世界を理解する前提だから。
読みながら思った。聖歌隊オルガニストが、美しい賛美を奉献する。オルガニストは譜面や楽曲の背景を(ある程度)理解している。聖歌隊は歌詞も味わって歌っている。一方で聴くわたしは音楽の理論が分からない。あるいはドイツ語やラテン語で歌われる歌詞の意味が分からない。しかし黙って聴くことにおいて、演奏者とは異なる意味の体系を積極的に受け取っている。それはたんなる受動性でもなければ、たんなる「呪」術でもない。沈黙して聴くことによる自己の内部での変化であり、また、自己の外部を変えてゆこうという決意の生成でもある。このような二重性を、青木は積極的に評価しているように思われた。
青木は冒頭でも、科学的だけではない、世界理解の多様性を語っている。そして、人類学者が呪術(≒迷信)とか神話という言葉で儀礼を日常から分離し、それらの言語や行為から理解を遠ざけることを批判する。こうした考察は、わたし自身の信仰理解にも光をあててくれるような気がする。