非難からの脱却を

大江健三郎らがひとくくりに「反日」とされる知性の貧困を思う。「日本を思って」領土に敢えて消極的であるという見解の一切が認められないのか。日本を思う=領土を守るであり、それ以外はすべて反日なのか。日本の文化や思想、歴史への愛と、領土への愛は、もちろん重なる部分も多いが、異なる領域を表してもいるのではないか。なんでも「ああ反日ね」、あるいは「ああ右翼か」の一言だけでは、他者について考える脳は何のためにあるのかと思う。
領土に消極的な人に対して、たとえば辛口に「あの人は領土問題に弱腰である」と批判するなら、まだ納得がいく。しかし「あの人は反日である」となると、それはどうかと思う。「愛」国の「愛」にはいろいろなかたちがあり、その浅深を簡単に測ることはできないからだ。
このあいだ『負けて勝つ 戦後を創った男・吉田茂』を観ていた。彼がアメリカに日本を売り渡した反日だったのか、愛国心の究極の選択ゆえに日本を東西分割から守りぬいた政治家だったのか、簡単には分からないということが伝わるドラマだと思った。というより、ひとりの人間をそう簡単に愛国か反日かの二分法で価値づけすることはできないとも。
また、憲法についても、たとえば同じNHKのドラマの『白洲次郎』では、憲法は契機としてはアメリカから押しつけられたものではあるが、それを当時の政治家たちが葛藤し苦悩しつつも受容し、受肉させた積極的なものとして解釈していた。逆に今回の『負けて勝つ』では、憲法はどこまでもGHQからの押しつけの、余計な産物として解釈されていた。同じNHKのドラマで一貫性がないといえばいえなくもないが、逆に、それだけ複雑な解釈の余地を、憲法のテクスト、あるいは憲法成立の歴史のコンテクストが孕んでいるということでもあろう。
どんどん活発な批判が起こればいい。ときには「あの人は外交問題に弱腰である」とか、「あの人は急進的過ぎる」というような議論が起こったらいい。喧嘩腰にもなることもあろう。しかし「あの人は右翼である」とか「あの人は反日である」というのは、そもそも批判ではなく非難であると思いたい。