自省してみる。

ふツー連・編『ふしぎな「ふしぎなキリスト教」』、慧文社、2012を読んでいる。手厳しく耳が痛いが、おもしろい。膨大な修正箇所のところは飛ばして、まずは序文や各論のところを読んでいた。読んでいて少し分かったのは、わたしには「わかりやすさ」へのコンプレックスがあるんだろうなと。
前任地で一所懸命準備して説教や聖書の話をしたとき、しばしば言われる評価で最も辛かったのは「難しくて分からない」と「そんな話に興味が湧かない」ということだった。これがいちばん挫折感の大きい評価だった。一方、話を受け取ってもらった上で「でも○○の部分は納得がいかない、承服できない」というような評価は、むしろやりがいを掻きたてる、大歓迎の批判だった。
「わかりにくい」ことへの恐れがつねにあったように思う。自分がとりつく島もない存在に陥ること、自分を受け取めてもらえないことへの恐怖か。牧師になる以前に友人と作っていたフリーペーパーも、それだけではないとはいえ、究極の目標は「ポップであること」だった。自分のなかに渦巻いている、言葉にならないような様々な想いを、鬱陶しがられることなく、そのエッセンスだけ伝えたい。わかりやすく簡潔に語ることが目標であった。『ふしぎなキリスト教』には、そういうものがあるように思われた。だから飛びついた。
しかし考えてみれば、難しいことを分かりやすく要約して伝えれば、必ず何かが抜け落ちるものだ。ないしは分かりやすさという基準が勉強不足の隠れ蓑にもなる。奥深いキリスト教の教義を、たとえすぐに理解されなくとも、また、人気も出ず、なかなか人も食いつかなくても、時にはまったく世間から相手にされなかったとしても、難しいままに伝えようとすること。そちらのほうが、むしろ誠実であるのかもしれない。
キリスト教の事実に即して正確であり、しかも分かりやすい話をしたいと思うならば、キリスト教のすべての分野についての浩瀚な知識を持っているという自信が必要であろう。そのような自信がないのであれば、狭く、専門的に、たとえ相手にされなくても、自分の確信したことのみを地道に語ることこそが本道なのだ。「広く」とか「分かりやすく」とかは、危険である。よほど力量がないと、多くのものを落とす。
極論すれば「一般の人に」理解してもらおうとする必要はない。そういう媚びがあると、必ず大切なものが抜け落ちる。狭く深く特殊性を究めることが、かえって普遍性を得るという逆説は、宗教に限らず、文学など芸術の世界、あるいは工芸などの職人技の世界で広く見られることなのだから。