「アーメン」と言うこと

小田垣雅也に会ってみたいと、いろいろ調べていた。残念ながら会うことはできなかったが、昨日、彼をよく知る方にお会いする機会を得た。小田垣が悠々とロマン主義を語っているのではなく、また現実逃避としてロマンに籠城しているのでもなく、さまざまな痛みや弱さの現実に直面しながら、そこにロマンを見出していることを実感。小田垣神学は無と有や不信仰と信仰の二重性や、仏教との相即関係を語るので、神学のメインストリームになることはないだろう。けれどもクリスチャンホームで育ったわけでもなく、自分自身のなかに根付いている日本の文化と一神教との接点を模索し続けているわたしにとっては、彼の神学は今や欠かせないものとなりつつある。
広谷和文の小論「牧会者にとっての小田垣神学」を読んでいた。ふと思い出していた。時化て舟が漕ぎ悩むなか、イエスが湖面を歩いてくる。舟にいるペトロはイエスに、自分も湖面を歩きたいと希望。そして舟から湖面へと歩きだしたものの、途中で怖くなったとたんに沈んで溺れかけ、イエスに助けられる(マタイ14:25以下)。あの話は通常、ペトロが信じ切れなかったために沈んだという不信仰の話として説明される。わたしもそう思っていた。けれども最近、関心の焦点がずれてきた。わたしは「ペトロって偉いなあ」と思うようになったのだ。いくらイエスが「来なさい」と言ったからといって、時化て荒れている湖面に一歩踏み出すのは、むちゃくちゃ勇気が要るじゃないかと。東京スカイツリーに登って、窓外の空中にイエスが立っていて、「来なさい」と言われて、仮に窓が開くとして、わたしなら一歩でも踏み出すだろうかと。とりあえずイエスに真似て、自分も水面なり空中なり、歩き出してみようと思うかなと。
「神さまに委ねたらいい」と、よく友人たちに励まされた。もちろん励まされて嬉しかったし、感謝もしている。とはいえ、では委ねるとはどんな行為なのかと。わたしはペトロのように湖面に踏み出して不信仰で沈むどころか、そもそも舟から一歩も踏み出せないレベルではないかと思ったのだ。そう思うと、まずは実行したペトロの、結果的に途中で沈んだとはいえ、なんといきいきした一歩であろうかと。わたしは「結局ペトロは溺れてイエスに助けてもらったじゃないか」と“結果”だけ観て嗤えるのかと。
そういうレベルで悩んでいるわたしにとって、小田垣雅也の神学は朗報なのだ。喜ばしい知らせなのだ。一歩も踏み出せないと思っている、膠着状態である、見渡してもどこにも神が「存在しない」。その絶対無において神はすでにいるという二重性の神学だから。こういう神学は「(神の存在を信じられないことの)言い訳に過ぎない」と一蹴されるかもしれない。だがおそらく小田垣自身が、そういうことで悩みに悩んだ末の「二重性」という結論だったのではないか。それは机上の空論ではなく、彼自身を賭けた信仰表現ではないのかとわたしは考えている。
“信仰とは、100パーセント信じ切っている状態でなければならないという思いから、自分の中に少しでも疑いや不信の思いがあることに悩み、苦しみ、何とか信じ切れる人間になりたいと願っている多くのキリスト教徒がいます。”“その訴えに対して、私もまた立ちどまるほかなかったのです。そのような私に、大きなヒントを与えてくれたのが、小田垣先生の「二重性」という言葉に他なりません。”広谷和文「牧会者にとっての小田垣神学」青山学院大学神学科同窓会『基督教論集』第53号(2010年)