語りというより、聴き取りの深さを実感。

日本では「1度失敗したらもうダメ」なのか 山中教授「若い間にいっぱい失敗して」に喧々諤々 : J-CASTニュース
山中教授の「若い間にいっぱい失敗して」という主旨の発現に、ネットで反発が起こっているようだ。山中教授のようなスーパーエリートないし天才的な人だからそんなことが言えるのであって、一般人は一度失敗したら二度と立ち上がれないではないかと。また、成功者だから言えるのであって、挫折中の人ならこんなことは言えまいと。
たぶん、「若い間の失敗は宝である」というのは、数学の公式とは異なって、「誰が」「誰に」言っているのかという関係性が、意味内容に含まれる言説なのだろうと思う。我田引水の譬えになるが、教会で牧師が、ふだんまったく信徒から信頼を得ていないのに、説教だけやけに立派、まったく神学的に正しいことを語ったとしても、信徒は「は?」で終わる。けれども信徒と牧師の関係がしっかりしていれば、むしろ多少極論であってさえも分かち合える。
山中教授は、聴き手をある程度信頼した上で「逆説」というものを語っているのだ。逆説は聴き手の信頼がなければ、聴き手にとってはただのひねくれかあてこすり程度、もっとひどければそもそも理解不能に終わる。こういう人が、こういう文脈で、こういう相手に、こういうことを語っている、という要素が意味を大きく左右するような語り。
おそらく、山中教授の講演を顔を観つつ聴いているのと、ネット上の記事で読んだのとで、同じ言説がまったく違って理解されたと思う。表情や動作、声の調子、抑揚などの諸要素が、予想外にテクストに深い意味の変容を与えるからだ。テクストの与えられた状況によって「なるほど説得力あるな」ともなるし、「今の自分の文脈とは違うんだな」とも。
わたし自身の感想は、前者と後者の二者択一というよりは、ないまぜになったような感じだ。保身の言い訳や自己愛まんまんでもあり、挑戦への意欲ふつふつでもあるような、おしりがむずむずするような感じ。