ここ数日の雑想

渋谷教会のテゼー礼拝に出た。よい時間を過ごしたが、90分以上賛美し続けるというのは、集中力が続かなかった。途中から「あと何曲(で終わり)かな」とか、不謹慎なことで頭がいっぱいになってしまった…でも、半分以上席も埋まっていたし、西南地区の(だったはず)挑戦は素晴らしいと思う。
いよいよ風向きが厳しくなったなかで、それでも中身ある人権意識を維持するには、どうすればよいのか。否、維持という発想の消極性が、すでに。
ラツィンガーの神学は、アウグスティヌスのそれを現代において忠実に発展的に継承している。その一方で、(だから)きわめて保守的でもある。天に召されたマルティー枢機卿や、今読んでいるスヒレベークのような、社会の現実や聖書学から大胆な発見をして教会の改革に取り組むような神学を、彼は受け止められるのだろうか。
ヒレベークから学ぶいちばん豊かなことは、聖書学が聖書神学として教義学と手を取り合うこと、しかも妥協ではなく両者の緊張感ぎりぎりのところで大きなものを生み出していることである。ラツィンガーのいくつかの著作にも、その可能性は見られる。しかしメディアでの彼の言動は、どうも辛すぎるように思う。