きぬずれ

鷲田清一の本を、また読んだ。『ちぐはぐな身体』(ちくま文庫)。『ひとはなぜ服を着るのか』とだいたい同じ趣旨だが、『ひとは』と同様、これほどに平易な表現で着る/着られるの人間の存在論を表現する、鷲田の哲学力に感動する。ふと、出エジプト記最後部の、長々とした祭服や幕屋の規定について思い出していた。
聖書を読んでいて、祭司の服装を文字で延々と描写されて、正直うんざりしたものだ。想像ができない、読み飛ばしたくなる・・・・・しかし鷲田の説をなぞるなら、それは神という他者の前に曝された不釣り合いな自己を、隠し、隠すことによって逆にその存在のある部分を際立たせ、強調する行為だ。また、祭服を着ている皮膚感覚が、儀礼に携わる自己意識、「神」への意識の輪郭をつくるのだ。そういうものとして、祭服や祭壇、犠牲や香、天幕など、皮膚に触れるもの、皮膚が触れようとするもの、目や鼻、口をとおして身体に入り込むもの、出てゆくものへの、繊細なこだわりが形成されているのだろう。それは神という他者への意識であると同時に、祭礼を行う自身を見つめているもうひとつの他者、会衆の視線への意識でもあろう。そういったものは、今のキリスト教の礼拝にも受け継がれていると思う。さらに言うなら、「祭礼的でない」服装の教会もあろう。牧師がTシャツを着て、会衆も家着をまとい、楽な姿勢で過ごす教会。それもまた、神が、あるいはイエスが、人々と家庭的にふれあっていることの、儀礼的確認なのかもしれない。