内在か超越か、ではない

ヒレベークス『イエス 一人の生ける者の物語(第三巻)』読了。第三巻からスヒレベーク「ス」になっている。ちゃんと後書きに書いてあった。第三巻を訳すにあたり、指摘を受けてオランダ語に近い表記に改めたという。同じ著作内で原著者の表記が変わるのは珍しいと思った。
訳者の一人、アリバスによるスヒレベークスの神学思想についての解説が、だいぶ役に立った。あらゆる時代に不変の、神による垂直で一方的な啓示「表現」はあり得ないこと。表現は時代背景、地域文化のなかで変わること。まさに人間の営みでしかない歴史の場、その人間による、その時代その場所の解釈において、宗教的体験はあること。しかもそれでいて、それが人間のすべてに解消してしまわないこと。神の超越性が人間の歴史においてこそ顕わにされることが、信仰の謂いであること。
この、内在と超越の弁証法は、やはり小田垣雅也を思い出させる。小田垣の語る汎在神論は、スヒレベークスは第四部のどこかで、その概念に対する否定はしていた。しかしスヒレベークスが語る内在と超越のゆたかさは、結局のところ小田垣が語る汎在神論と通じているように思われる。まさに人間しかいない、神は確認できないという場で、実はすでに神と出遭っており、神のただなかに人間はいると。イエスの歴史的実在の思い出たる新約聖書、そこから照射された旧約聖書において、それが確認できると。
プロテスタントにおける、弁証法神学としての言説はもちろん大切だとは思う。しかしあまりに猛烈に「人間的なるもの」を否定し、人間の罪と不可能性を強調し、神による上からの垂直の啓示ばかりを語ろうとすると、少なくとも日本人には、思いっきり遠い話になるおそれがある。そういうことを言うと「人間に媚びている。日本の風土に迎合している。」と言われるのかもしれないが。