逆説は連呼できない。それでも笑う。

録画しておいた『日曜美術館』のルオーを観た。道化師やイエスの聖顔など。鹿島田真希さんがルオーについてゆたかに語っていた。「三日目に復活すると知っている人が、『聖顔』を描いている」。未読だが、彼女の『冥土めぐり』は、難病をわずらい身体の不自由を余儀なくされた夫との生活から着想されているという。不幸を終わりなき不幸と捉えるのでなく、終わりがあると確信する生き方を、彼女はルオーの、死を前にして穏やかなキリストや、傷ついてなお笑顔の道化師に見ていた。
先日読んだ姜尚中の『続・悩む力』もそうであるが、こういう「苦しみや挫折をとおして人は真実の意味を得る」式の発見や体験は、どこか普遍化を拒むものがある。テーゼにして、普遍化ないし抽象化すると、必ず馬鹿々々しくなるか、テーゼへの礼節は守りつつも違和感を抱くことになるだろうからだ。「え?挫折しないと成長できない?それって敗者のルサンチマン、負け犬の遠吠えじゃないの?」とでも反発したくなるような。テーゼを対象化して自分から距離を置き、抽象的(非人称的)に眺めれば、それは陳腐な逆説にしか聞こえない。
しかし、ルオーによって描かれたイエスの色、絵具の厚み、削れや重ねが実際にそこにあり、道化師の平安がそこにありありとあるというとき。わたし、あなた、わたしたちの痛みや挫折、そこからの足掻きと遅々とした回復を、そこに受け取り直すとき。まずその驚くべき回復の現実があり、その現実に衝き動かされ、説明すべき言葉を失い、その静かな喜びを、後からなんとか説明しようとするとき。そのとき、姜が語るような「二度生まれ」、つまり生まれ、素朴に順風に暮らし、しかしすべてが覆されるような危機を味わい、だからこそ、今まで当たり前と思っていたことを、かけがえのないものとして喜びと感謝のうちに受け取り直すというような、「テーゼ化」が初めて可能となる。このテーゼは、だから対象化できない。渦中に飛び込まねば、その真意を味わうことはできないのだ。
中途半端にそれを「誰にでも受け入れてもらおう」として、危機や挫折を煽ったり美化するようなテーゼ化は、逆にそれこそ現実逃避、負け犬の遠吠えというチープさを生むだろう。あらゆる普遍化を拒絶しつつ、渦中にあって言葉にはできず、しかもそれは現実に、今日もあちらこちらで起こる希望なのだ。あなたが、わたしが、言葉にもできず、しかもそのからだで表している証しなのだ。これほどに苦しいのに、痛いのに、もう死ぬのに、しかも笑顔という。