弱気な、あまりにも弱気な

17年前の大震災の際に、衝き上げる轟音と身動き出来ぬ激しい揺れのなかで、生まれて初めて神に命乞いをした。死の恐怖と激しい命乞いをあとで思い起こし、ああ自分は絶対に、大好きなアニメの主人公のようにはなれないのだと諦めたものだった。
領土問題などにより日中戦争(紛争)が勃発したとして、わたしは現実にそこに赴くことが出来るのだろうか。赴いて、何らかの戦力になることなど可能なのだろうか。中国との全面対決を主張する人たちは、自分、あるいは自分の家族も銃を持って、自衛隊ないし米軍の船に乗って、戦場に赴くことを覚悟しているのだろうか。もし、中韓との全面対決を主張する人の見解が「おれはそんなに若くない。行政、思想面でそれを勝利へと指揮するから、さあお前たち、悔いなく闘ってこい」という意味のそれなら、わたしはたぶん敵前逃亡してしまう。
これらは飛躍した妄想、それも実に弱々しい、月並みな不安に過ぎない。でも、沈没する輸送船の阿鼻叫喚を祖父から、空襲で下半身燃えながらまだ生きている人間の話を父から、戦闘機の機銃掃射で即死した女の子の話を母から聞いて育った自分には、平和思想や非戦論の是非以前に、戦争や紛争は恐怖でしかない。
“対立は積極的存在を意味する。否定とは対立ではない。”ウイリアム・ブレイク