非日常は、日常とそんなに遠くない。

青木保著、『儀礼の象徴性』、岩波書店、2006を読了。文化人類学のかなり込み入った議論によって、個人レベルの儀礼から国家レベルのそれに至るまで詳細に分析し考察している。日常と非日常、支配と被(あるいは非)支配、隠蔽と露顕などのさまざまな二項対立が、じつはそんなに簡単に二分できるものではないことを結論的に表している。
振り返ってわたし自身の宗教であるキリスト教について考える。日々の礼拝や教会暦に従った諸行事、その内部におけるさまざまな取り決めや立ち居振る舞い、そして洗礼や聖餐など・・・・それらは単純に意味すなわち教義のための手段や象徴「にすぎない」のではないこと。本書で言及されるコミュニタス、すなわちあらゆる身分や過去の経歴等の差異が一時的(この「一時的」が重要。長期に持続させるためにはコミュニティ、すなわち組織化序列化が不可欠となる)に抹消され平等化が生じる集団体験が、教会の儀礼においてもなされている*1儀礼における行為そのものが、ときに聖書のテクスト以上に人を解放ないし拘束することをあらためて確認。
個人的には次の一文が心に残る。“人類学でいう「けがれ」の概念が、分類されえないもの、どっちつかずにあるもの、両義的な存在、に発することはよく知られているが、不明確で構造に位置づけられず、秩序に矛盾するものは、不浄と見なされる傾向にある。”(同書、282頁。)

*1:このコミュニタス体験の濃淡が、あるいは礼拝に感じるリアリティの濃淡、リフレッシュなのかどこか退屈なのかの鍵なのかもしれない。