既視感を与えてくれる思想の幸福

胃がん検診でバリウムを飲んだ。難しい姿勢をいろいろ取ったり、頭を下にしたり、胃をシェイクするのに身体を激しく左右に転がしたり。こういう検査ノウハウを考えた人ってすごいなと、あらためて。でも高齢者には無理だろうな。高齢者はたぶん最初から胃カメラなんだろう。下剤がなかなか効かず、お腹が重たかった。今もバリウムがまだ腸に残っている感じがある。
“有神論や神の存在証明は人間の所作であり人間の思考であって、そのような人間の議論の枠の中には、現実の神はいない。有神論─無神論の対立はあくまでも人間が建てた構図だからである。” 小田垣雅也著、『現代のキリスト教』、講談社、1996、42頁。
小田垣雅也の言説は、ほんとうにしっくりくる。傲慢不遜をおそれずに言うなら、「まるで自分が言ったようだ」という既視感を与えてくれる。それほどに、わたし自身の今の神感(神観というよりも)にあう。肌にあう。父なる神や子なるイエス・キリスト聖霊について、もはや素朴な主観─客観構図で現実味を感じることは、少なくとも今の自分には無理だという実感がある。
逆説は連呼すると安っぽいが、それでも「居ないのに居る、無いのに(無いから)まさにそこに在る」というような体験(体験といっても瞬間的キセキ体験のような劇的なものではない。あくまで、振り返ればいつもそうだったというような、ゆっくりとした)である。