泣く恵み、笑う恵み

教会の映画鑑賞会が毎月ある。小礼拝堂を用いて、それこそ小劇場並みの設備で。いつも仕事がかぶって観れなかったが、今日は仕事を「中断して」(サボったのではない)、映画を観た。『ショーシャンクの空に』。公開時からいつか観よう観ようと、ずっと見逃してきた作品。だが、「今」観てよかった。不条理や絶望のなかで、それでも希望を失わないでいることが、どれだけ難しいか。今このときに、映画の渋味を味わわせていただいた気持ちがした。ラストはもちろんファンタジーめいてはいるし、主人公の人格もできすぎた感はあるけれども、それでも美しい映画だったと思う。
来週は永眠者記念礼拝がある。連れ合いはその母を弔った教会へと帰るため、明日から家を空ける。永眠者記念礼拝の祝福されんことを。
キリスト者は、ふたつの恵みのあいだに生きている。ひとつめの恵みは、自分や他人の死を泣く恵みである。この、そしてあの命の器は神によって作られたものだから、割れたら誰にも修復できない。二度と元に戻らない。だから割れた時、すなわちその人が死んだときには、残された者たちは割れた破片たる遺体を前にして、この器がどれほどかけがえのなかったことか、どれほど大切な器だったかを思って泣く。そしてその器がもはや誰にも、二度と修復できないことを思って泣く。また、その悲しみからつねに逆照射されているからこそ、ふだん、どんなに自分や他人がつまらない人間に思えても、自分も他人もたった一個の、他に同じ模様や肌合いのものがひとつもない、茶碗でありカップであり急須であることを知る。そして大事に使おうと思うのだ。割れたら二度と帰って来ない茶碗は、割れてこそ、その大事さを思って後悔し泣くのだが、その涙をあらかじめ想像しつつ今を生きることも、わたしたちにはできるのである。
もうひとつの恵みは、キリスト者は次のことを知っていることである。つまり、人間には二度と修復できないその砕け散った器が、神によって再び修復されること、すなわちもういちど新しい命を与えられることを、知っていることである。割れたら二度と戻らない。だから大事にする。だがそれでも割れてしまったら、絶望するのか。しない。今のわたしにも、他の誰にも修復不可能な器であり、二度と取り戻せない無力さを、わたしは今泣くだろう。けれども、それとまったく同時に、この器の破片は今や、神によってひとかけらさえ残さず受け取られ、まったく新たにされて、またわたしたちのもとへと返されるだろうとわたしは知っている。だからわたしは泣きやむことができるし、そして時間はかかっても、また笑うことができるのだ。そうやって、涙で腫らした目がじょじょに乾くのを知る集い、神との約束を微笑みあう礼拝が、永眠者記念礼拝なのだ。諸教会の永眠者記念礼拝に、イエス・キリストの復活の祝福あれ。