むかしもいまも

“十字架につけられたのは、三位一体のうちの一つでなければならなかった。もしこの告白が、「神性受苦論者」という嘲りの称号をもたらしたら、「彼らは栄光の主を十字架につけた」という使徒の言葉に慰めを得ることができた。受肉したロゴスは「その神的な本性においてではなく、その人間的な本性においてだけ死んだ」というカルケドン派の定式に反対して、ヒュポスタシスの統一のヤコブ派の立場は、統一の後の二つの本性を語ることはネストリオス派の思想への屈服である、と主張した。”『キリスト教の伝統 2 東方キリスト教世界の精神』、114頁。
うーむ。ルターはなんて言ってたっけ・・・・勉強不足で分からん。正統的には、イエスの神性は十字架でも苦しまなかったということなのか。なんだか単性論のヤコブ派のほうが、自分のイエス理解にはしっくりくるような。つまり、イエスが苦しんだとき、神そのものが痛んだと。でもそれは単性論で異端ということになるのかなあ。
いっぽうで現代では、キリスト教においても「儀式は呪術的」「教義や教理は人間が考えたもの」という主張があって、その行き着くところに、「死後の救済は神に任せればよい/どちらでもよい。我々が考えることは、今をいかに生きるかである」という死生観がある。死を覚えない宗教。「復活?ないと思うよ。あれは古代の神話的表現。」と平然と仰った牧師さんもいたなあ。
そういう「いかに今をよく生きるかが大事」という語りには、死の気配がない。あくまで健康で元気溌剌に生きることができる人向けの、強気な価値観であるように思われる。圧倒的な死の現実、あるいは死の気配にさらされつつ無力感のうちに生きる人に「イエスの“ように”よく生きる」というメッセージは、おそらく伝わらないだろう。
あくまで個人的な見解に過ぎないが、文献学としての聖書学の研究者や、今ぱっと例が思いつかないが、何らかの分野の神学者は、無神論者であってもかまわないとは思う。けれども教会で信徒と接し、牧会をする牧師は、やはり「復活はない」と言い切るのはまずいと思うのだ。葬儀の「むこう」が、「亡くなった人はあなたの心のなかで生き続けます」だけでは、あまりにも。