ホンバでない理解

わたしは海外に出たことがないので、「やっぱり留学しないと神学にせよ西欧文化は分からないよ」と言われると辛い。「やっぱりキリスト教は信じないと分からないよ」と言われるときの上から見下ろされる感じも、似たようなものなのだろうか。とはいうものの牧師に関しては、例えば信仰者ではない人と話していても、信仰抜きに考えることへの共感を持って受け答えするというのと、「そうですよね、わたしも復活なんて信じていないんで、分かりますよ」というのとでは、根本的な違いがある。牧師に課せられる縛りというものだろうか。
“私は音楽の外に立っていて、この立場から音楽を考察する。この立場がひどく不完全なものであることは私もいさぎよく承認するし、内部に立っている幸運な人々にくらべて私がほんのわずかしか覗きえないことは私も否定しない。しかし私は自分の立場からもときとしてなにか報告することができるだろうという希望を捨てない。(中略)そうしたら、私は未知の国の国境まで出かけていき、たえず国境に沿って歩き、こういうやり方で自分の運動によって、あの未知の国の輪郭を思い描き、かくて一歩も踏み込んだことがなくてもあの国のおおよその観念を持つことができるであろう。”キルケゴール 『あれか・これか』浅井真男訳
キルケゴールはうまいことを言っている。けれどもこれはフィクションだ。実際には彼は熱心な求道者であり、クリスチャンだから。そういう意味では芥川龍之介の『西方の人』『続・西方の人』は、キルケゴールがフィクションで描いたことを本気でやった記録である。キリスト教国ではない文脈だからこそ、キリスト教国やその文化圏では思いもよらないことを考えることだってできる。「ホンバ」に憧れるのも楽しいが、捉われる必要はないだろう。
最近他の本の読書に忙しくて読んでいないが、『正法眼蔵』をちびちび読み進めるのが好きだ。殆ど理解できないが、なぜか落ち着く。また、これとはまったく違う趣きながら、『歎異抄』は深く心に響いた。とくに第九条の、念仏を信じられぬがゆえになおいっそう念仏を、という主旨。こういう場合、「仏教を信じなければ仏教を理解することはできない」というのは、たしかに真理ではあるかもしれないが、少なくともその豊かな信仰世界を想像してみることはできる。一方でキリスト教の場合は、「知解せんがために信ず」(まず信じて、そうしたら理解できるようになる、くらいの意)というアンセルムスらの偉大な態度が、日本ではむしろ障壁となっているのかもしれない。アクセスのしやすさという意味において。
そういえば井筒俊彦訳の『コーラン』を読んだこともあったが、あれはしんどかった。終末論的な審判預言と悔い改めの勧告がめちゃくちゃ厳しくて。とはいうものの、たぶん日本語訳の『コーラン』を通読した程度では、ムスリムたちが実際どんなにいきいきとした信仰生活を送っているかなど理解できないのだろうけれど。