瞬間を切り取るのか、動きなのか

野矢茂樹『心と他者』(中公文庫版)を読んでいる。知覚と幻覚は何が違うのかを、一所懸命に考えさせるテクスト。あまり実利的にとらえるのはよくないと思いつつも、「役に立つなあ」と思ってしまう。というのも、まずは知覚も幻覚も等しくリアルな体験なのだ、それが真か虚かは留保しなければならぬ、という考えを突き進めれば、「おれには見えた。おれはそう感じたんだよ。だからおれはやる」ということが正当化されるだろうから。それこそキルケゴールアブラハムとイサクについて問題提起した「父による子殺し(未遂)」の倫理性問題のような。「おれにはたしかに、神の声が聴こえたんだ」「それは幻聴ではないですか?」
野矢の幻覚と錯覚の考察は、しかし難しい。木の枝が蛇に見えた。あとで枝だと分かった。この、「前と後」を一貫する共通のものなどないと野矢は言う。
わたしは頭が悪いのか。まるで野矢が、蛇は木の枝に変化したのだ、と語っているように聞こえるのだが。野矢の批判する大森荘蔵が言おうとした、錯覚か実在か判定される以前の、それ自体としての立ち現われ、というのはたぶん、錯覚だったと分かる前には、それは実在だと信じ込んでいたという意味だ。大森は実在だと思い込んでいる時点に踏み止まって「立ち現われそれ自体の虚実無記性」と言っている。だが野矢は錯覚だと分かった「後から」振り返って、虚実無記の中立的なものなどなかったのだ、錯覚の露顕によって蛇から枝へとアスペクトは変化したのだと、「経過」を論じている(ように思う)。これだと、なんだか大森に対して不公平な批判的検討ではないかな、とも思う。そもそも、現象的─静的に考えるなよ、認識は実践的─動的なもんだろ、と野矢は言いたいのかな。 以下のようなことだろうか。
大森 蛇に見えたときはその人にとって間違いなく蛇だったんだ。その時点では錯覚じゃない。
野矢 錯覚としての蛇の見え方と、枝だと確認できた際の枝の見え方は、錯覚か現実かのはっきりとした違いがあるでしょう?というのも錯覚から現実への変化があるじゃないですか。