「正常さ」は移植可能か

“いったい、「正常な状態」とはどのような状態のことだろうか。健康状態が正常であること、鉄道の運行状況が正常であること、テレビの映りが正常であること、ある人物の言動が正常であること、・・・・・。いったい、これらすべてに共通する「正常さ」という特質など、見出されうるだろうか。”
“この、絶望的なまでの多義性”
“「正常な状態」などという状態は存在しない、あるのは異常な状態とその欠如のみでしかない。異常に関しては、さまざまな観点からさまざまなチェックが為されるだろう。そしてそのように規定されたさまざまなタイプの「異常」が、その欠如としての「正常」を意味づける。「異常」が「正常」からの逸脱として規定されるのではなく、「正常」が「異常」の欠如として規定されるのである。”(以上、野矢茂樹『心と他者』中公文庫、81-82頁)
正確な出典は忘れたが、アウグスティヌスがどこかで、善を悪の欠如として語っている。不在を実在の欠如として語る手法が先なのか、悪が善の欠如として語られるのが先なのか、詳しい歴史は知らない。だがいずれにせよ西欧の哲学では長い間、ネガティヴなものはポジティヴなものの欠如として語られてきた。
あえて倫理くさい言い方をすることが許されるなら、マイノリティなものはマジョリティなものの欠如として語られてきた、ということだ。野矢茂樹はべつに倫理の批判をしたいつもりでこんなことを書いているのではないが、かつて和辻哲郎の『倫理学』にハマったわたしのような人間としては、どうしてもそういう文脈に結び付けて考えてしまう。メアリ・ダグラスの『汚穢と禁忌』を思い出す。汚(穢)らわしいとされるものは、別のコンテクストでは清い。
こういう考察をしようとすると、すぐ「じゃあなんでもありか。なにしても自分が正しいと思っていれば正しいのか」という早急な反論も出る。ある通り魔殺人犯は、人殺しは罪であるという法について問われ、「それはあなたがそう思っているだけのこと。わたしは違う。」と言い切った。
「人それぞれ、なんでもいいじゃない」の相対主義と、「相対的であること」に持ちこたえ、耐え忍んで考え抜くこととは、何が違うのか。そのことを今も考え続けている。