メモ ─ 野矢とアウグスティヌス

“「子どもなき世界の親」なる存在は可能だろうか。ありそうに思えるとすれば、現に親子が存在しているこの世界からすべての子を殺してしまうような想像に基づいているだろう。だが、はなからこの「子どもなき親」しかいないということ、そんなことは可能だろうか。不可能である。「親」とは何かあるものそれ自体の性質を述べている語ではなく、他との関係を述べた語だからである。同様に、「心」もまた、あるものの性質を述べた言葉ではなく、他との関係の在り方を述べた言葉なのではないだろうか。「心」という概念と、「心ある他者」という概念は本質的に結びついている。それゆえ、「唯一の私の心」という表現は矛盾であり、「私の心」は「他者の心」と対になってしか概念化されないと、私には思われるのである。”(野矢茂樹『心と他者』、126頁)
親子の議論で、ふとアウグスティヌスの『三位一体』を思い出した。子は父がいるから子であり、逆もまたしかり。この関係性を抜きにして、単独の父そのもの、子そのものなどは考えられない、といった趣旨。ろうそくの炎と光との区別と同一なんかも例示されていた。