追記 粗雑に

他者と何かを共有する可能性は、ウィトゲンシュタインの『確実性の問題』のテーマとも通じる。誰かが目の前の何かを徹底的に疑うとしても、自分の目があることの確実性は前提にしている。触りまくって確かめるにせよ、手があることは前提している・・・・・みたいな。
もしも他人が徹底的に「他者」という殻の内側にしかなく、永久に覗き得ず、他者はわたしにとって一切不可知なのだとしたら、そもそもコミュニケーションが成立するのかなと。「これはそう、あいつのふりをした精巧なロボットなんだ。そうだ間違いない、ぜったいロボットなんだ・・・」では、対話じゃなくて恐怖だよな。
疑うためにさえ、疑う足場が要る。他者の不可知を論じるにしても、きっとそういう「足場」の楽観性を前提していると思う。