あいまいさに耳を傾けてくれる神学

イミンク『信仰論』を、一所懸命読んでいる。なんだろうこの「一所懸命」さは。ペリカンは翻訳が難しいにも関わらず、「次はどうなる!?」と読んでゆく。イミンクは「読まねば。学ばねば。」という感じ。人格、主体、応答・・・・・馴染みの神学的言葉遣い。ただし、わたしがつねにしんどさを感じてきた。
同じ改革派なら、たとえば関口康のブログのほうが、よほどわたしには学びになる。以前本人に「日本人の神学」云々の話題をもちかけたら、「そんなつもりは一切ない」と仰った。だが彼の丁寧なオランダの改革派神学の学びは、わたしからすれば、まさに神学の日本文脈化だ。 http://ysekiguchi.blogspot.jp/
というのも彼によるファンルーラーの翻訳公開や、そうした翻訳作業から得た彼の神学的考察、説教などが、同じブログに掲載される彼の「生(なま/き)」の生活、つまりAKBや政治やいろいろな幅広い関心、子育て、お弁当づくりetc.と有機的に結び付いているから。否、「結び付いている」というよりも、関口の神学は、それらの「生」の生活という地のうえにこそ成り立つ図だからである。
人格、主体、応答・・・・のきびきびとした語感に、生活したこともない西欧の「成人」社会の遠さや距離感を感じてしまうのに対して、関口の言葉はまったくわたしと地続きである。わたしの日常に転がっている言葉で神学を語ってくれる。その神学には、主体性のあいまいな文化への慈しみのまなざしがある。だから正直イミンクを放り出して、関口をどんどん読みたい思いではある。
しかしイミンクのような語りこそが、きっと改革派の正統なので、こんなこと言うと怒られちゃうんだろうなあ・・・・とくに今の日本基督教団では。