完全にとはいかないが、知り得る─察する

“私があひるの姿を見ているそこに、うさぎの姿を見る他者が現われるとき、私ははじめて私がそれをあひるとして見ていることを、すなわち私がそれに与えている意味を、自覚する。そうして私は、相手の見ているうさぎとしての意味を理解しようとし、また、私の見ているあひるとしての意味を理解してもらおうと、語り、問い、答え、耳を傾ける。”野矢茂樹、『心と他者』、中公文庫、329頁)
“つまり、他者の他者たるゆえんは、その頭の中を覗き込むことができないとか、彼自身の歯痛を私が感じることができないといった点にあるわけではなく、同じ現象を違った連関のもとに捉え、違った意味を読み取るといった点にこそある、というわけだ。”田島正樹による同書あとがき)
たぶん、他人の痛みを知り得ないのではなくて、他人の痛覚が、その人にとってどんな意味や体験の(言うなれば人生の)連関のなかで感じられた痛みなのかを、完全には知り得ないという意味なんだろう。

“たんに本を返したり返さなかったりするのではなく、「約束したから本を返す」のであり、「約束をしたのに本を返さない」のである。約束を交わすということは、私の今後の行為をこうした相のもとに見させることにほかならない。” (同書、324頁)
キリスト教は契約の宗教だと言われることがあるが、約束についての野矢の要約は勉強になる。イエス・キリストとの約束を意識するとき、単相的だった(素朴な)思いや行為や他者との関わりが、まったく違った相貌を持つようになる。それは単なる「約束を守った、破った」では済まない複相を帯びる。
それにしても野矢の語りがみょうに心に入ってくるのは、テクストと遭遇した環境に拠るところも大きい。『哲学・航海日誌』は連れ合いが倒れたときであったし、『心と他者』は母の手術の際であった。