クリスマス・イヴ雑感

Facebookは実名だから、やっぱりホンネ書くのは怖いな。なんせ求職中だし。
いやー、来春無職に戻ったらやばいな・・・・いつ「無任所」という形容詞が取れるんだか。
前任地時代、神学部の先生に会いに行った時、さらっとその先生が言った。「キリスト教は都市型の宗教だからね。」。また、正教師試験の検定委員だった牧師と後日たまたま談笑していたときにも、「(地方で伝道が伸びないのは)社会学的事実だから」。そりゃまあそうとも言えるけど、それを言っちゃったら元も子もないがなと。
たしかに今、東京の大きな教会でお世話になっており、この大規模で整えられた一連のクリスマス行事を学ばせて頂くにつけ、そしてそれを見たクリスチャンでない人がさらに洗礼志願を意志表示したりするのを見聞きにするにつけ、先の先生方の「分析」ってやつが頭によぎってきて、しょうじき滅入る。
友人やお世話になった人たちが、前任地付近や、あるいは別の地域で、民家みたいな、あるいは仮設みたいな礼拝堂で、ご高齢の方々数名と、それこそ文字通り「守っている」礼拝。というのも、何かに新たに挑戦するには、もはや限界の人数や財政であるから。だがそこにもクリスマスが来るのだ、絶対にな。
以前牧会雑誌『ミニストリー』で、田舎の牧師が都会の牧師に会いに行って、その格差に愕然とする様子を戯画化した童話風の物語が掲載されており、賛否両論を生んだ。とくに地方都市の牧師からは反発が多かったと思われる。わたしも悔しかった。だが、わたしの抱える「劣等感」ってやつを、見事なまでに風刺してくれていたとは思う。
じつは今もそういう劣等感を、この場に居ながら感じ続けているのではないか。自分の過去の悪戦苦闘は何だったのかと。そしてその劣等感から抜け出さない限り、ないし受容しない限りは、牧師に復帰するなど神から赦されないのではないか・・・・と、とりあえず任地が決まらない言い訳をしてみる。
やっぱり、牧師に戻るんなら、もう一度地方都市でやり直したい。どこに赴任するのか、そもそも任地が与えられるのか、いよいよ人生仕切り直しでハローワークに行かねばならぬのか、すべては神のみぞ知るのではあるが。
あかん。イミンク読んでても、ぜんぜん頭に入らん。