視覚にうったえる

F・G・イミンク著、加藤常昭訳『信仰論 実践神学再構築試論』、教文館、2012、やっと読了。神を主観に収めるのでもなく、かといって徹底的に彼岸の彼方の超越として崇拝するのでもなく、神という主体とわたし(あなた)という主体との関係性が大事ですよという論旨で、諸神学・諸哲学を批判的に検討した本。彼が後半部で研究の軸としたプランティンガという人の哲学を知らないので、イミンクの批判的検討がしっくりきているのかどうかも分からない。ただとにかく、ありありとした他者として眼前に実在する神と遭遇しているわたし(とあなた、わたしたち)という信仰体験がイミンクの立ち位置なのだろう。
以下、ペリカン著、鈴木浩訳『キリスト教の伝統 2』、教文館、2006より。“勿論、イコンに対するこのようなキリスト論的な擁護のニュアンスが、(中略)無学な信者に理解できるものであったと想像するのは全く馬鹿げたことであろう。しかし、こうした論争の中で究極的に問題になっていたのは、そういう人の信仰だったのである。教会の大衆(ホイ・ポッロイ)にとって、イコンが宗教的な信心の大切な対象であり、宗教的な教示の価値ある源泉、「教育を受けていない者たちの書物」であったことは、確かに明らかであったと思われる。”。(「第3章 見えざるものの像」205-206頁)
ルター派から正教に改宗したペリカンの個性が光っている章だった。正教のイコンを偶像崇拝であると反対した聖画像破壊主義者に、正統派がどのように対峙したのかを追うペリカンの筆致は、ルターの聖餐論に見られる具体的で可視的なキリストの現臨からさかのぼった正教のイコンにおけるそれの理解/受容だ。ペリカンによれば、マリアや聖人をイコンをとおして崇敬することもまた、その可視的礼拝行為をとおしてイエス・キリスト受肉を讃えることであると。逆にあらゆる可視的なものの否定は、ゆきつくところ十字架や講壇、ひいては耳で聴きとる(感じとる)聖書の言葉の否定であると。
ふと、昨日ある方とツイッター上で、教会はどの程度視覚的なもの(や式次第の洗練)にこだわらねばならないかということで論争した。地方でのわたし自身の苦闘から、ついムキになって「(欧米のように教会を美しくするなど)そんなことできやしない」反論した。しかしそれは冷静ではなかった。論理的な立場としては、やはりその方の、礼拝における外的なものをきれいに整えるべきという提案には傾聴せねばならないものがある。たとえ直ちに実現するのは難しいにせよ。プロテスタントで、正教でなくても、イコンという発想はないにせよ、神の言葉を感じ取るにあたり、また、目に見える聖餐を拝領するにあたり、それは礼拝堂全体を利用して行われるものだ。そこが雑然としているということは、めぐりめぐって礼拝そのものが雑然としてしまうことになる。
むかし、教会に洗礼盤がなかった。洗礼式の際、耐熱ガラスのボールに水が張られ、埃がかぶらないようにラップがかけられていた。正直、料理の準備のようにしか見えなかった。そしてそんなふうにしか見ることのできない自分自身の想像力の貧困に対しても腹立たしかった。その後役員会でお金を捻出してもらい、洗礼盤を購入。高かった。