わたしに与えられた一デナリ

去年、郵便配達でからだをこわして、そろそろ1年か。仕事失くして、絵に描いたように、公園でぼーっと子どもらが遊ぶのを眺めるオッサンしてたなあ。ただ、何か無性に解放感に満たされていたのも事実。
明日の教会学校のお話のために、マタイ20:1-16を読む。イエスさまって、人の欲望のありかたを見抜いておられたんだなあと。って、救い主なんだから当たり前か。ぶどう園で朝から汗だくで働いた人が、夕方ちょろっと働いた人が同じ給料貰ってるのを見て、雇用主に文句言う話。
あれって、給料もらう順番が逆だったら、たぶん文句は出ない。朝から汗だくの人が先に給料貰う。貰ったら当然ウキウキ、そそくさとその場を立ち去るだろうから、他の人がいくらもらったのかなんて考える余地はない。「先に」「自分よりラクをした」人が貰っている一デナリのを「見た」のが問題。そこからは必然的に「じゃあおれはいくら?」の世界。
欲望は他者との比較によって掻き立てられる。「ええ?あいつが・・・おれはこんななのに!!」。「あいつもあのこが好きなのか。くっそー、おれだって!」etc. 他人の芝生はゴールデン。
でも7節で5時過ぎに雇われた人は、ほんとうに朝から汗だくの人から見て「うらやましい」存在だったのかどうか。“だれもわたしたちを雇ってくれませんから”と答えた、そこに突っ立っていた人。ほうぼうめぐって交渉して、それでも仕事がなくて、もうなすすべもなく立ち尽くしていたのかもしれない。これからどうやって生きて行くんだよ。途方に暮れていたときに現れた「主人」!「主人」の寛大さに、その人はひれ伏さずにおれようか。
5時過ぎに雇われた人は、きっと、ラクをして夕方からの労働にありつけたわけではなかった。比較の罠。わたしも去年、ただ立ち尽くしていただけなのに、こうして仕事と住むところを与えてもらった。今も別の意味で立ち尽くしているが、わたしは信じている。
まあそんなドロドロな話を、幼稚園児と小学生のクラスで話すわけにはいかんわな・・・・