引き受けること

内田樹ばっかりだが、また引用。今度は彼が紹介(たぶん彼自身が翻訳)しているレヴィナスの『困難な自由』の一文。“罪なきものが苦しむ世界に私たちはいる。そのような世界でいちばん簡単な選択は無神論を選ぶことだ。無神論を選ぶ人はこんなふうに考えている。神様というのはよいことをした人間には報償を、悪いことをした人間には罰を下す存在だ、と。つまり、神様とは、正義の配分をつうじて、万人を『幼児』として扱うのだ、と。無神論とはそのような考え方をする人がとる選択肢である。そういう理屈で、あなたたちは天空から住人を追い払ってしまった。なるほど、そうやってこちらのつごうで簡単に店立てを喰わせることができるということは、ずいぶんと低級な存在がこれまであなたがたの頭上には住まっていたわけだ。ではあなたがたに問いたい。このからっぽになった天空の下で、あなたがたは、なぜまだ意味があって善なる世界がありうると思えるのか。”
“秩序なき世界、すなわち善が勝利しえない世界における犠牲者のあり方、それを受苦と呼ぶ。この受苦が、いかなるかたちであれ救い主として顕現することを拒み、地上的不正の責任をすべておのれの身に引き受けるような人間の成熟をこそ要求する神を開示するのである。”(内田樹著、『「おじさん」的思考』、角川書店、2011、「単行本版あとがき」より )
神義論(善人がなぜ苦しみ、悪人は罰を受けずのさばるのか)という議論があって、それにきちんと答えるのは難しい。レヴィナスのこの文章は、戦後収容所からかろうじて生き延びたユダヤ人が「神などいない」と嘆いたことに対する応答だという。
レヴィナス自身このように応えるからには、そうとうな応酬が同胞たちから返ってくることも覚悟の上だったろう。だから内田はレヴィナス“老師”と呼んで敬意を払っている。彼が師と仰ぐ場合、それはほとんど崇拝さえ辞さぬほどの尊敬の態度であることは、彼の師弟論がすでに語っている。
神さまはいいことをした人を褒めて下さり、悪い奴は懲らしめて下さるはずだという前提から始まる神義論について、そもそもその前提自体を「幼稚」と一蹴するレヴィナスの気迫。おそらくレヴィナスは上から目線で語ったのではない。聴き手に殴られ蹴られる危険の親しさ近さから、それでもあたたかく語ったはずだ。
悩み苦しむ人にレヴィナスのこの言葉を、そのまま冷たく言い放っても何の意味もない。それどころか暴言に過ぎない。そうではなく、この言葉を沈黙とあたたかさのうちに秘めつつ、悩み苦しむ人と何かを分かち合う倫理性が求められるのだろう。この説を声に出して語るか語らぬかではなく、おのれのうちに受肉させるか否かなのだ。