神の開け

ネット上で、あるクリスチャンとテーラワーダ仏教の求道者(どちらも日本人)とが承認欲求について話していた。それで強く思い出した。ある尊敬する牧師が「牧師に‘成功’なんて視座はない。牧師が成功を求めるなど馬鹿げている」旨語ったことがあった。
この先生ならきっとスパッと切り返されてしまうだろうと分かっていながら、それでもわたしは問うてみた。「でも、成功欲はなくても、せめて『お疲れ様』と言ってもらいたい、くらいの、承認欲求はあるのでは?」。案の定、彼は「全くない。自分がどう思われるかではない。だって自分のことじゃなくてキリストを伝えているんだもの。」。ヤラレタ!やっぱりすごい。
たぶんわたしは、神に身を献げると言いつつこの承認欲求すなわち自己愛の問題から抜け出せずにいるので、ちょっとした他人との衝突だけで落ち込んでしまうのだ。つねにイイコイイコしてもらわないと気が済まないのだろう。
自分は剣道をかじったから思うのかもしれないが、この牧師のような思い切りの良さ、構えのなさには、どこか洒脱、武士の道に通じる透りのよさがある。牧師としての体捌きを心得ている。それはそうとうな稽古の積み重ねを予感させるが、しかし稽古の足し算の総和ないし結果でもない。まさに「神から下りてくる」、言いかえれば「神に委ねきることによる」としか表しようのない飛躍である。
かかり稽古で何度も相手に打ち込む。打ち込んでは弾き飛ばされ、弾き飛ばされては打ち込む。吐きそうになるほど疲れる。打ち込むどころか、立っているのもやっとになってくる。そういうなかで、ふっ、と、全く違う身体感覚が生じ、教えられても全く出来なかった構えや動きができるようになる、否、生まれるのだ。あれは「与えられる」もの、それ以前と断絶したもので、出現するまでは悪戦苦闘、嘔吐をこらえながら待つしかない。
というわけで、足掻きの向こうに「開け」が与えられると信じて、今このときも悪足掻きを続けることにする。