対談≒雑談

小林秀雄岡潔『人間の建設』を読んだ。二人の対談のリズムを愉しむ。そう、内容ではなくリズム。日本には対談という文学ジャンルがあるように思う。吉行淳之介『対談 浮世草子』然り、埴谷雄高北杜夫『さびしい文学者の時代』然り、金子光晴『下駄ばき対談』然り・・・・・。
ある程度の打ち合わせはあるのだろうが、あとはお互いが触発されあって、その場の表現として面白いことを言い合う。討論とか、いわゆる「対話」というのと違って、読者は雑談を傍で聴くように愉しむ。雑談ゆえ、その魅力は客観性や学術性というよりも、話者たちの毒舌の面白さや刺激、小気味良さだったりする。すなわち内容よりもリズム。
『ふしぎなキリスト教』も、最初からそういう売りで出版すればよかったのにと思う。二人の社会学者による、日本の対談ジャンルに沿った、雑談を愉しむといった体の読み物として。これが「キリスト教入門」として多くの人に受け止められてしまったのが、たいへんまずいことになった。
岡潔小林秀雄の対談から真面目に数学や文学、芸術を学ぼうとする読者は少ないのではないか。それなら数学者としての岡や哲学者・批評家としての小林それぞれの「厳密な」文章にあたるのがよい。
道を窮めた者たちによる、しかし番外編的、舞台裏的で、閑話休題的な、限りなく雑談に近い対談。肩の力の抜けた、言葉のかけあいを愉しむ文学ジャンル。読者はむしろ、専門分野に真っ向から取り組むふだんの糞真面目さとは違う、くつろいだ彼らのトボケやズレに微笑むのだ。どこでどういうふうにあれが「本気100%の学術的入門書」として受け止められてしまったのか。
『ふしぎなキリスト教』の両著者が開陳する「オリジナルな」見解は、たぶん金子光晴の『下駄ばき対談』のなかで稲垣足穂が“べらぼうに巨きな鳥が、砂漠で砂を大量に食ってウンコしたのがピラミッドやそうですね(笑)。”と飛ばしているようなノリなのだ。