おととい、きのう、空港で

出張先で『八重の桜』を観る。
空港に来たが、雪で東京へ帰れないので、出張先に戻ることにする。こっちはこんなにあったかい陽気なのになあ。
今日は飛行機が飛びそう。結果的に出張先で、より親睦を深めた。まあどんくさいなりに自分にできることをやっていこうと。
そういえば空港でステンドグラス作家が出店していた。十字架やぶどうや葉っぱをくわえたハトなんかのモティーフもあったので、ごく簡単に象徴の意味など説明すると、驚いていた。作者は純粋にデザインの美しさから製作していたようだ。こちらもグラスのあれこれを教わり、楽しい出会いだった。
金属検査でひっかかる。吊りベルトやカフスボタンなど何らかの衣類の金属が反応したようだが、靴を脱がされ、捕虜のように手を広げ、他の客にもじろじろ見られながら上着をまくられたり触られたり、身体検査をされるのはきわめて不愉快だった。今までいちいちベルトや眼鏡やカフスボタンなどをすべて外して入場したことなどなかったのにな。
内田樹レヴィナスと愛の現象学』(文春文庫)を空港の売店で買った。こんなくだりが。“弟子は「同一の教え」について、師とは違う「注解」を語り、同じ聖句について「同じ意味の新しい相」を見出す、ということである。”。“弟子たちは、「完全なる」テクストがより「完全」になるために必要なのである。”。
飛行機のなかで考えていた。聖書やその後の教会はイエス本来の教えとは異なっている、イエスから逸脱/堕落してしまった、ということがよく言われる。そういう視点はもちろん、現状の教会を批判する際にただしく働くこともあるだろう。だが、イエスの言説をコピーペーストすることは、弟子と師の関係から見ても物理的に無理だったんだろうなと。
エスの弟子たちはイエスの生前の人柄や言行、復活の事実に強く制約され縛られつつ、しかもなお弟子一人ひとりの言葉遣いで、その後の彼らの人生の文脈のなかで福音を語っただろう。そして弟子たちから伝承を受け取ったそれぞれの人たちも、さらにそのようにしていったはずだ。それはたしかに「堕落」でもあったのかもしれないが、それ以上に、受け取り手一人ひとりにおいて、先ず創造的であったのだ。