無者

ニー仏さん*1の、ニコ生放送の話が面白いので寝られん。やってみなきゃ分からんのがテーラワーダ仏教なのか。眼を瞑って「青などない!」と言っている人の眼を開かせ、青を見せるのが仏教なのだとも語っておられた。一方で、たしかにやってみなきゃ、なんだけれども、それでも「やれない」人、そもそも眼を開くことが到底不可能な人をを抱きかかえようと、余計なお世話に奔走するのがキリスト教なのか。
ニー仏さんが、もともと他者とべたつかない、成人した人だからテーラワーダに向かったのか。それとも、テーラワーダの瞑想の結果そうなのか。わたしは逆に、他者に依存し、べたついており、つねに他者を志向し、というよりむしろ他者によってのみ自我をかろうじて意識できるがゆえに、キリスト教へ向かうのか。それとも、向かった結果そうなのか。もう寝るかな。限界。
レヴィナスの、徹底的に他人へと顔を晒され、無限に他人に対して責務を負うというような哲学は、言説としては気が遠くなるほどしんどい、ほとんどマゾヒスティックなものなのに、なんで惹かれるんだろう。実際、神学生時代にかぶれ、初任地で大失敗したのにな。
とはいえ、ニー仏さんのテーラワーダ仏教における瞑想のお話のなかで、徹底的な孤独の知、それもたんに言語化し得るそれではなく、実体験としてaloneであってlonelyでない境地へと開かれるという解放は、少なくとも自分のべたつきまくった人生の文脈には遠いと思った。わたしは、たぶんaloneに至るまでにlonelyに押し潰されるから。しかし瞑想は仏教の膨大な伝統のもとに蓄積されたノウハウのはずだから、孤独の知といっても、最初はきっと指導者に導かれつつ、徐々に実現してゆくものなのだろう。しかもその指導者である誰かは、レヴィナスの語るような「他者」とは異なるのだろう。責務は無限に自己ひとりにあり、しかもそれを突き抜け行くのが瞑想なのだろう。
ゆたかに学ばせてもらったこと。「他者、他者」とわたしが妄想するのは勝手だが、そんな文脈とはまったく異なる知の系譜があり、その知の系譜に心血を注いでいる人間がいるということだ。そしてその人を安易に「他者」と呼んではならない。その人は手垢のついた「他者」と呼ぶことさえできぬ、無─者なのかもしれないから。