言葉の受肉

小林秀雄が、本居宣長の“姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ”という表現を用いて、逆説的な論考をしている(「言葉」)。言語表現において通常言われる「表現を真似るだけなら容易だが、表現の奥にあるその真意を理解し同一化することは困難だ」という説への反逆である。
“大人が外国語を学ぼうとして、なかなかこれを身につける事が出来ないのは、意から言葉に達しようとするからだ。言葉は先ず似せ易い意として映じているからだ。言うまでもなく、子供の方法は逆である。子供にとって、外国語とは、日本語と同じ意味を持った異なった記号ではない。英語とは見た事も聞いた事もない英国人の動作である。これに近附く為には、これに似せた動作を自ら行うより他はない。”“例えば、「お早う」という言葉を、大人風に定義して誰が成功するか。「お早う」という言葉は、平和を意味するのか、それとも習慣を意味するのか、それとも、という具合で切りがあるまい。その意を求めれば切りがない言葉とは即ち一つの謎ではないか。即ち一つの絶対的な動作の姿ではないか。従って、「お早う」という言葉の意味を完全に理解したいと思うなら、(理解という言葉を、この場合も使いたいと思うなら)「お早う」に対し、「お早う」と応ずるより他に道はないと気附くだろう。” (『考えるヒント』文春文庫)
ウィトゲンシュタイン言語哲学でも読んでいるような気持ちになってくる。言葉の奥へ奥へと「意味」を突き進む道ではなく、言葉の表面、その使用や行動においてこそ意を得る道。内田樹が哲学の理解を頭でなく身体に置こうとする姿勢と深く響き合っている。