頑固一徹

昨日ニコライ堂で、信徒の方がガイドをしておられ、説明を受けた。キリスト教の流れを示した図を見せてもらったら、正教の矢印が一番太く、そこから二番目に太いカトリック、そして細々とプロテスタントの矢印・・・・。
イコンに描かれた神は、ガイドによると、自分の心が沈んでいると悲しげに見え、喜んでいると微笑むように見えると言う。ふと、同じく数百年の歴史を経ている、能の面(おもて)を連想した。
正教の十字架の下の線(十字架上のイエスの足台)が斜めになっているのは、イエスを罵った強盗と、イエスの無罪を告白した強盗とを表しているのだそうだ。イエスを讃えた強盗の側に向かって足台が斜めに上がっている。その象徴を観つつ、信徒はおのれの心がキリストから離れていないか確認するのだと。
クリメント神父さまが、自分が他教派の人を正教会に招くのは、他教派から正教へと回心してもらいたいと願うからだ、と率直に語っておられた。ふと、聖公会の司祭の友人を思った。彼も「うち(聖公会)へ来ませんか?」が口癖の、舌鋒鋭い保守派の論客である。偶然クリメント神父さまと殆ど同世代でもある。
聖公会の友人は「うまい酒を飲んだときに、『お前もこれを呑め!うまいぞ!』って思わず勧めませんか?最高のものに出会ったときって、そんなもんでしょう?」が口癖。表現は違うが、神父さまのいきいきとした態度を思い出すにつけ、そうした凛としたものが伝わるのであった。
顧みて自分は。「日本基督教団に来いよ!」と胸を張って語っているか。どちらかというと「うちの教会に来ない?」と各個教会主義に止まっている。もちろん教団や教派ごとに特性は違うから、それを悪いと一蹴はできないのだが。
配慮は大事だとは思う。けれど一方で、自分がすてきだと思っていること、自分が一生を賭けたいと思っていることを、頑固なまでに他人へとアピールすることも、同じくらい大事だ。
排他的なまでに一心不乱に携わっている姿は美しい。クリメント神父さまと聖公会の友人が頑固な議論を戦わせる姿を、ふと想像した。