死とつきあうすべ

親しい先天性の全盲の方に、眠ったとき夢をどんなふうに見るのか聞いたことがある。風や人の肌触りや音声を「見る」と。つまり聞こえたり感じたりすると。また、全盲に近い弱視の方が、手術などの治療によって「見える」ようになった結果、かえって怖くて出歩けなくなった例も。弱視時代は白杖で自在に歩いておられたのだそうだ。
エスさまが目の見えない人の目を開いた、癒したというとき、癒された人はたんに見えるようになったのではなかったろう。つまりその人は今まで体験したこともない全く未知の新しい感覚として「見え」へと導かれたということだ。怖いくらい全く未体験の開けへと。
今日も火葬前式を司式してきた。前任地の火葬場と違い、東京の火葬場は大きく、つねに満員状態。読経や人の話し声などが響き、腹から声を出さないと祈りは掻き消されてしまう。天に召された人と、遺された人々のために、キリストに向かって精一杯声を張り上げた。
このあいだクリメント神父様から、正教には定式化された祈りとして「永遠の想起」というものがあると教わった。また以前に、聖公会の友人から、聖餐式の祈りのなかには死者の想起があるとも。教会において、死者を想起すること、死を覚えることは、信仰の基礎なのだろう。今日も葬儀において、死の修練を味わった。
死生学で「死のポルノ化」という言葉を習ったことがある。ポルノとは、人から隠れたところでこっそり見るものだ。つまり死は集中治療室など、日常生活から隠され、プライベート化され、誰も死や死体を見ることがなくなっている、ということである。だから死は日常生活を営む人々にとってはよく分からない、不気味で、唐突で、恐ろしいものと化したと。
教会は信徒の共同体でもある。先達の信仰者の死に際して、人々はその人の生前歩んだ信仰を想起しつつ、葬儀の備えを手伝い、あるいは遺族を慰め祈る。そういうことを繰り返すうちに、その人々もまた、自分が死ぬ順番が巡って来ることを知り、備えるようになる。そしてそれは死への恐怖からそうするのではない。むしろ死(者)の想起である。
今日、荼毘に付された方も、そのようにして人生のなかで多くの方の死を見送り、老い、自分の順番が近いことを悟り、準備して、そして召されていった。もちろん人によって準備が出来ないこともあるし、若くして召されなければならないこともある。不条理な死としか思えないことも。しかし死は必ず痕跡を遺す。
その痕跡を、遺された人々は受け取る。亡骸を前にして、それが終わりではないこと、たんなる不在ではないこと、存在をありありと知らしめる標としての無であることを味わうのだ。
キリスト教においては、聖餐がキリストの見えない「からだ」を表すのとちょうど逆に、亡くなった人の見える「からだ」が、キリストの復活の約束を示すのだ。
死は恐ろしいものであり続けるかもしれない。しかし教会で死を繰り返し目撃することは、恐ろしいものは恐ろしいものとして、それでもそんな死とつきあう術を身につける修練でもあるのだ。