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ペリカンの『キリスト教の伝統 2』の、ようやく「フィリオクエ」の手前まで来た。西方のアウグスティヌスと、東方のマクシモスとの類似と相異が面白い。アウグスティヌスの堕罪論は、アダム以降の罪の遺伝を語る。マクシモスはアダムを人類全体の話と見る。そしてその人類に、堕罪ではなく死が入り込んだと。アウグスティヌスは神の一方的恩寵と予定を語る。マクシモスは人間の自由意志を重んじ、自由意志における神への参与と交流を語る。つまり神と人間との統一と共働だ。そういえばドストエフスキーの『悪霊』のなかでも神人共働説が出てくるが、あれは一個人の思想というよりは、そういう伝統から派生したものなのだろう。
正教と西方の諸教会で、聖霊は父から出たのか、父と子と両方から出たのかが、教理上決定的な壁になっている。三一論は信仰の核だから、これはそうかんたんには譲歩できない・・・と書きかけて、でも同僚のなかには「三一論?んなもん会議で決めただけのことだろ」で一蹴する人も多くいることに気付く。
プロテスタントでは、マクグラスもどこかで書いていたが、各々が自由に聖書を読むようになったことから、教派によっては教理は死にかけている。それはそれで多様性なんだろうけれど、そうなると俄然、「いい牧師か悪い牧師か」のみに教会形成が依存するようになると思う。
「おれは誰の指図も受けない」、それもありだろう。にしたって、どんな指図があって、どんな指図に逆らおうとしているのかを知らないと、結局逆らっているつもりが素朴に同じことを繰り返しているだけ、みたいなことにもなる。牧師が「人柄」だけでそれをやってしまうと、大変なことになる。
なにも教理で人を測りたいわけじゃない。そうじゃなくて、牧師なり信徒なりが、自分たちがどこを歩んできて、今どこにいて、これからどこに向かうのかを示す地図として。「信仰のみ、聖書のみ」であるにせよ、その信仰や聖書へのアクセスの仕方を示す案内書として、教理は大切だと思うのだ、たとえ示されたのとは違う道を行くにせよ。
「そういう制度化硬直化した教義なり教理なりが、人を抑圧する暴力装置にもなる」というような議論は、もちろん大切だと思う。教理や教義を相手を測る尺度にしだしたら、暴力が始まるだろう。しかしまた一方で、教理や教義の歴史をまったく知らない信徒の方々から「いい先生」を素朴に熱望され、潰れてゆく地方教会の若い同僚たちをも何人も見てきた。
そんななかで熊野義孝の『日本キリスト教神学思想史』と出会ったのが一つのきっかけだった。熊野は、日本では客観的な神学の形成ができず、個人の(人柄や来歴に依存した)思想に止まっているという意味で、「神学史」とはせずに「神学“思想”史」というタイトルをつけている。読み込みも大きいだろうが、熊野は牧師の個人プレイに左右され翻弄され続けた日本のプロテスタント教会形成に問題を提起していると、少なくともわたしには読めた。
牧師は教義や教理をもって理論武装し、信徒から何を言われても反論できるようにせよ、という意味ではない。教会の共同体が今どこにいて、どう歩んでいるのかを顧みる指針として。また、2000年近くにわたる先達がどのように信仰して天に召されていったのかを想起する基準として。
でも、またそれとは異なるが、いのフェスで出会った人の、「イエスさまが全人類を救えるのか自分には分からない。けれど、イエスさまはわたしを救って下さったんです」と言い切った笑顔も忘れられぬ。これを「個人的主観的非共同体的信仰」と切り捨てられるか。