メモ

東方では、父、子、聖霊を、あくまで明確に区別することから始めている。父が原因、そこから子であり、聖霊は父から発出し、子を経て我々へ。それに対して西方では「関係性」が重要である。子と父との関係を結ぶのが聖霊である・・・・で、だいたいいいのかな。
たしかアウグスティヌスの『三位一体』でも、父と子との関係性としての愛が、聖霊の比喩(換喩?)として語られていた。父がおるから子がおり、子から「父」と呼ばれて初めて父がおると。あれは典型的に西方的なんだな。
小林秀雄ヒットラーと悪魔」より。“もしドストエフスキイが、今日、ヒットラーをモデルとして「悪霊」を書いたとしたら、と私は想像してみる。彼の根本の考えに揺ぎがあろう筈はあるまい。やはり、レギオンを離れて豚の中に這入った、あの悪魔の物語で小説を始めたであろう。そして、彼はこう言うであろうと想像する。悪魔を、矛盾した経済機構の産物だとか一種の精神障礙だとかと考えて済ませたい人は、済ませているがよかろう。しかし、正銘の悪魔を信じている私を侮る事はよくない事だ。悪魔が信じられないような人に、どうして天使を信ずる力があろう。諸君の怠惰な知性は、幾百万の人骨の山を見せられた後でも、「マイン・カンプ」に怪しげな逆説を読んでいる。福音書が、怪しげな逆説の蒐集としか映らぬのも無理のない事である、と。” (『考えるヒント』)