異なる知見の存在を覚えて

東京に暮らして来月で1年になる。こちらでは教文館御茶ノ水クリスチャンセンター、大きな教会などでいろいろな講演会やイベントもあり、キリスト教関連の書籍も入手しやすい。そういう環境にいれば、信徒にもそういった知的な探究心が芽生えることも多くなると知った。
差別を生みかねないので発言に気をつけねばならない。決して馬鹿にする意味ではない。地方教会で働いたうえで痛感したこと。それは、地方教会の信徒は、そういう知的なイベントに触れる機会が圧倒的に少ない、ということである。むしろ牧師がそういう話をすると、対等な対話ではなく上から目線になる。牧師が知を独占し、信徒に配布しているかのような権威構造が生まれてしまう。
わたしは何回もその失敗をしては、「先生は信徒をみくだしている」との誤解を受けたのだった。いや、それがいくら内面として誤解であるにせよ、行為としてわたしは信徒を見下したのだ。一方で、東京の今いる教会や、いくつかイベントで出会った人たちについて言うなら、その人たちにとっても知的なものへのアクセスが牧師と対等かそれ以上に容易なせいか、そういう軋轢を生む要素は少ないと感じた。
地方の教会には、それぞれの地方、それぞれの町の教会で、わたしが「勉強した」知見とはまったく異なるものの見方や価値基準があるということを、東京にいると忘れかけている。そのことは意識して思い起こしたいと思う。少なくとも牧師になりたいのなら。
ないものねだりなのかもしれないが、キリスト教関係の出版社のイベントも、東京に集中せずに、あちこちの町でやってもらえれば、とも思う。それも、信徒数名の教会が点在するような町で。