耳を塞ぐな

(ある方の、本気で伝道したいなら働きながら小さな教会で牧師をしたらよいではないか、生活のために職探しとして任地を求めているのではないか、という問いかけに応答して)
厳しいがええこと言うなあ。実際、無任所教師のあいだ、牧師になるとはどういうことか、一所懸命考え続けたからなあ。神に召されるとはどういうことかと。
(その方の指摘されるとおり)好ききらい、あるいは、正直に言って「ラクな生活ができるかどうか」を求めていたと思う。今もそういう誘惑があると思う。
耳を塞ぎたい衝動に駆られるが、こういう人の言うことを無視するようになったら、いろんな意味で終わりだろうと、自分としては思っている。
(その方が偶然「対話をする」を「対話を剃る」と誤入力され、後で訂正しておられたのに関連して)逆にむしろインスピレーションを得る。自分にとって、対話とは身を剃るような痛みというか、緊張を伴うものである。相手は自分の暇つぶしの対象などでは決してない、まぎれもない他者だからだ。