入り口と本質と

(ある方が、都心で若い人向けにスピリチュアルで自由なコミュニティとしての教会を拓きたいと語っておられたことに触発されて)
クリスチャンでない若い人と接していて、たぶん若い人たちはこういうキリスト教を求めているんだろうなあとつくづく思う。例えば自分で本を読んでお寺を巡る若い人は、檀家制度などには興味がないのと同じで。
或る先生が或る西欧の国のことで仰っていたが、みんな月曜から土曜まで、休みがあるとはいえ朝から、ないし夜遅くまで働いており、日曜の朝まで早起きするのは体力気力ともに限界であると。だから夜に礼拝をやるプロテスタント教会も増えてきたと(もちろん伝統的な時間帯にもやってはいるらしいが)。
都会の美しい礼拝堂など設備の整った教会なら、これまでどおり日曜の朝に堂々とやっていても人は大勢やってくる。けれども地方、あえて言うなら「いなか」の、汲み取りトイレの民家とか、究極の場合には払い下げのプレハブとかでやっている礼拝で、しかも若い人に来てもらおうとするならば。
わたし自身の地方の経験から語るなら、いきなり本質論(聖書の深みや教理など)を語り「見かけはどうでもいい」では、戦後はともかく、今は限りなく難しいと実感している。いわゆる「本質」に至ってもらうためには、様々な入り口すなわち「見かけ」で大胆な工夫を凝らす必要もあるのだ。
周囲は田畑で、数名のご高齢の方々が「強い絆」で結ばれた共同体たる教会。そこに若い人がひとり行けば、みんなから熱く見つめられ、握手を求められ、結婚しているのか否かなど根掘り葉掘り聞かれ・・・・たしかに若い人には「うざい」、残念なことだが。今、東京の大きな教会で働いていて分かったのは、誰でも気軽に来れて、好きな時間に立ち去れること。みんなと礼拝するのがしんどいときには、広大な建物の一角でお茶でもすすって寛げること(それでも教会には居るのだという、この安心感!)。大勢のなかから自分にあう人と交流できること。
これから九州に行ってどのように牧会するか、いろいろ考え中。
以前『歴史秘話ヒストリア』で戦国時代のキリシタンの話をやっていたときに、人々が教会に来るようになったきっかけの一つとして、カステラ(のもとになった菓子)を神父が配ったことが挙げられていた。食べた事もない甘美なる菓子を求め、人々が群がったと。それと世にも珍しい、美しい賛美歌の音。これらを「伝道として邪道、非本質的」と嗤うか。
「ただ神の御言葉のみ。御言葉から外れた人間的なことはしない。すべて主に委ねる。」ということで、一切宣伝もせず、家庭訪問もせず、看板も立て替えず、分かりにくい立地の汲み取りトイレの平屋で、信徒数名(10人以下)で頑張っておられる牧師。その方を個人的に尊敬している。その頑固一徹さに敬意を感じる。御言葉の鋭さに立ち返らされる。しかし一方で、「教会が生き残る」という視点からすると・・・・