伝道「対象」?

(若い人に教会に来て助けてもらいたいとかじゃなくて、逆に若い人に「教会ではこんなにステキに歳を取れるんだ」と示すくらいでないと、という意見を聞いて)
わたし自身のなかにある、教会に来てほしい若い人=共同体を維持存続させるための必要人員、という発想自体が、すでに他者としての尊厳を相手から奪い、結果として若い人から「うざい」と思われるような言動しかさせないんだろうな。
たしかに教団なり各個としての教会なりを維持存続発展させることは、現実問題として無視できない課題ではある。しかしそれとはまったく別に、まるでそんな課題など無いかのごとくに、目の前のかけがえのない人格と出会うこと。
昨日ツイッター上から、ザビエルは民衆の涙にもらい泣きしたとの情報を聞いた。彼が何について泣いたのかとか、なぜ泣いたのかとかよりも、彼が伝道勢力拡大といった「計画」を度外視して、先ず目の前の貧しい民衆におのれを曝け出し、涙したという事実。これこそが相手を衝き動かしたのだと思う。大勢の洗礼は、あくまでその付帯的結果なのだろう。