教理について雑感

ツイッターのタイムラインに、よくマザー・テレサの言葉が流れてくるが、たとえばその生涯を全く知らない人が彼女と同じ言葉を彼女より先に発していたとしても、それはただの理想論としか受け止められまい。相手の手を握り介抱したであろう「マザー・テレサ」という人名と彼女の発言とは一つである。
教理に対するわたしのイメージも、それに似ている。具体的な名前を持つ誰かが、同じく具体的な誰かと出会う。そうやって共同体としての教会がある。そこで分かち合われるときに教理は生きる。言語ゲームにおいてゲームのルールが先にあるのではないのと同様に。
教理とはそのように神のもとに他者との血の通う交わりを活かすことにおいてのみ客観的なのであって、他者を自己の延長として測定するためのツールではない。しかしわたし自身を含め、人は教理をそのように「利用」したであろうし、その結果、教理は冷たいと誤解されているところが、なんとも辛い。