捗らず

引っ越しの荷造りを始めた。無任所教師になるときに1回、その後1回、東京に来るのに1回、そして今回。もう引っ越しにも慣れたが、そのたびに捨てたり買い直したり出費がかさむ。それになにより、どうにも落ち着かない。次こそはしばらく定住したい。
箱詰めしていて、お気に入りのヨースタイン・ゴルデル『フローリアの告白』の帯が破れた。引っ越しを繰り返すと美しい装丁の本が傷むのも辛いんだよな。いくら気をつけて箱詰めしているとはいえ。
『フローリア』は面白かったな。映画にしてほしい。アウグスティヌスが「回心」するに際して捨てた女性フローリアが、彼女から見た彼の姿を書いた文書が発見された、という設定。性を嫌悪し、彼女に暴力を振るう「禁欲的な」彼の姿が赤裸々に告白される。フィクションだが、男性中心教会への皮肉とも。
などと感慨にふけるすぐ傍には、アウグスティヌスの『三位一体』が。これがまた面白くて・・・・作業にならんな。
ツイッター上の、科学的に測定される音波は果たして音と同一か、という議論に即して)アウグスティヌスの『告白』の下巻を思い出した。今聴いた直後の音はすでに消え去り、これから聴く音はまだ鳴っておらず、まさにこの瞬間に鳴る音を聴取するのみだが、それが音楽になるのは記憶の作用があるからだと。ベルグソンの純粋持続概念のルーツ。
これまた荷造り中に出てきた、藤田正勝『京都学派の哲学』の久松真一のところを読む。佗茶のくだりに、なにかしら柳宗悦のルーツのようなものを感じる。繋がりがあったのかどうかは知らないのだが。ただ、覚においてキリスト教の創造も終末もぜんぶ今体験し尽くすというのは、ちょっと贅沢だなと思った。
覚の深みはきっとすばらしいものであるとは思われるが、なにも一人の、ないし同時代の主体(たち)が生きているあいだに、始めも終わりもすべて味わい尽くさなくても、未完のまま次の世代へと託してもいいんじゃないのかなと。