間接性のもどかしさ、ゆたかさ

おととい教文館で買った『ミニストリー』冬号が届いた。特集「学校と教会のあいだ─次世代に何を託すか」に、いろいろ考えさせられた。学校で宗教主事や聖書科の教師として働く側の立場から山本真司氏、嶋田順好氏、磯貝暁成氏が、そして教会専任の牧師の立場から石橋秀雄氏が語っていた。
あくまで私的な印象に過ぎないが、三氏と石橋氏とのあいだに、何か溝のようなものを感じた。三氏はキリスト教主義学校の諸問題や可能性について分かち合っている印象。一方で石橋氏は“学校では絶対できないこと・・・”とか“学校との大きな違いは、教会は信徒が来なくなってもどっこい生き延びます”といった、学校とのつながりというよりはむしろ、学校とは異なる教会の特殊性を前面に出す語りに思える。
もちろん石橋氏にもベテラン牧師として、また付帯施設の幼稚園に責任を持つ身としての、ゆたかな経験があるだろう。そういったことを前提とした上での語りだから、彼の発言も決して軽視はできない。
学校で働く先生たちは現場の具体的な事柄を語り、石橋先生は御言葉の教理的な働きを説いている。双方の語りの地平が微妙にずれている感じがする。どちらの語りがいいか悪いか、という意味では決してない。ただ、具体論と抽象論との平行線ではあるなあと。学校で働く牧師たちと、教会専任の牧師たちとの差異を明確に読み取り、その違いから何を交換し合い、協力し合えるのかの具体策を考えてゆく。その第一歩として貴重な記事ではあった。
前任地で幼稚園の園長をしていたが、保護者たちはあくまで優れた施設としての幼稚園を求めているのであって、キリスト教ではないという壁に、つねにぶつかっていた。前号だったかの『ミニストリー』で、学校の聖書科の先生が、「授業は伝道目的ではない」と明言しておられることに、じつは若干共感したのだ。
園長は子どもたちや保護者に、折にふれてキリスト教のゆたかさを語らねばならない。けれどもそれが「勧誘」になってしまっては、もはやあらゆる親子を受け入れる公共の教育施設としては難しい。それはキリスト教系の学校だって同じだろう。今回の記事での四氏の語り合いは、たぶんそれについてはあまり意識していない。
園長をしていた時、教会のみで御奉仕されている牧師さんから「幼稚園なんて世俗に媚びているのであって、結局は真の躓きたる福音を伝えることはできない」とご批判を受けたことがあったが、それはご批判を受ける間でもなく当然のことなのだ。
真の躓きたる福音をダイレクトに伝えたいなら教会でやればいいのであって、それしか必要ないのであれば、べつに幼稚園も、たぶんキリスト教系の学校も要らない。