裂け目

下世話なQ&A「洗礼を受けたいのですが、受けられません。どうしたらいいですか?」
わたしも完全に同じ意見ではないけれど、共感。地方教会では長男の嫁とか檀家の家系の関係で、個人の意志に関係なく物理的に洗礼不可能、という方も多くおられる。
わたし自身は、洗礼なき聖餐はあり得ないと、頭と言うより身体的に形成されている。しかし母校でオープン聖餐に踏み切っている先輩たちと何人も、それも具体的に出会い、話したこと。わたしの信じる教理ではすっぱり整理できるが、その具体的な人間たち一人ひとりは、必ずわたしの整理を突き破る。その場合、「わたしの信じる」教理とは何か?
イソップの蝙蝠であることを自覚すること。鳥にへつらい、獣におもねる者は、最終的にはいずれからの信頼を得ることもできない。
逐語霊感の教会で洗礼を受け信仰を育んでもらい、リベラルな教会で神学生生活を送ったことが、何かわたしのなかで、致命的な裂け目、曖昧さを生んでいることに気づくこと。
結局は牧師にとって、あらゆる問題は他者を判断するためでななく、このわたしは神の御前に何者であるのかを問うために突きだされた問いであるように思われる。“弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。”(『歎異抄』奥書)