踊躍歓喜のこころ

連れ合いが気を利かせて、知らぬ間に『親鸞 いまを生きる』(朝日新書)という本を買ってテーブルに置いておいてくれた。姜尚中田口ランディ、本多弘之の三氏がそれぞれ短い随筆を寄せている。まずは姜尚中の文章を読んだ。『悩む力』『続・悩む力』に書かれてあることと、おおむね同じ論旨だった。
前任地でいろいろ悩んでいたときに、『歎異抄』の第九条まで読んで、驚いた。弟子の唯円が、念仏を唱えても心が躍らないのですがと、親鸞に相談する。わたしは勝手に、恐る恐る打ち明ける若き唯円といった姿を想像していた。そして親鸞は答えたという。「わたしもだよ、唯円お前もか」と。衝撃を受けた。信仰に成熟し老成したであろう師が、こんなにも素直に応える姿に。
親鸞は語っている。もしも念仏を唱えて心が躍るのだったら、あなたにはそもそも煩悩なんて無いんじゃないの?と。念仏を唱えても心が躍らないというわたしの弱ささえ、すべて阿弥陀仏がご存知であり、だからこそ、そんな罪深いわたしを阿弥陀仏は救って下さる・・・親鸞はそう確信していると、わたしには読めた。
わたしには、そう言って微笑む親鸞と、それを聴いて今こそ心躍る唯円の、彼らの粗末な着物の裾が擦れる音さえ聴こえるような気がして、なんとも言えぬ安心を得たものだった。「聖書を読んでも、なんで主に委ねることができないのだろう」と悩んでいたわたしだったから。
わたしも捻くれ者だと思う。同僚の牧師さんたちから「主に委ねたら大丈夫!人間的な思いに捉われてはいけない!」と励まされれば励まされるほどに「委ねるってどういう行為なんだ!?」とよけい悩む癖に、親鸞唯円のやり取りに涙浮かべるという。お前キリスト教徒なのかと、ちょっと可笑しくなる。