解釈を手放す試み

以下、ウ・ジョーティカ『自由への旅』より。“菩薩(ボーディサッタ、ゴータマ・ブッダの前身)の物語をいくつか読んだ時、私は菩薩たちが、完璧な場所に住むことは望まないことに気がつきました。なぜでしょう? 推測するのはとても簡単なことだと思いますよ! 学ぶことが何もないからです。”
“痛みに反応すればするほど、それは激しいものになります。それについて考えるのをやめて、何もしようとはせずに、ただその痛みに気づいていて、それを克服しようとはせず、解釈もせず、ただその痛みとともにあれば、しばらくの後、その痛みは曖昧になり、以前ほど痛くはないと感じられます。”
ニー仏さん訳の、ウ・ジョーティカ『自由への旅』の「四 最初の洞察智へ─意識と対象の区別に気づく」まで読む。解釈を手放すという提案。たしかに、解釈するから喜びはあるのだが、解釈を重ねることでいっそう怒り、いっそう悲しみが増すこともある。
ありのままに「受け入れる」のでさえない、ただ感覚があること、感覚が対象への気づきであること、その気づきそれ自体に気づくこと。ちょっとハイデガーの「脱自」を連想する。もちろん脱自と言った時点で即解釈だけれど。深い悲しみを、解釈する即ち取り去ろうとするのでなく、いっそ悲しいままに味わい抜く。
ただ、運動や痒みの認知について、やや疑問もわく。痒みを感じて、腕を伸ばして掻く前に、腕を伸ばそうとしている意志を「解釈なしに」感じるというのだが、そうやって寸断するというか、スローな動きになった時点で、ふだんの運動すなわちアフォーダンス的なものと違ってしまわないのか。
痒いから掻くときには「痒い」とすら思っていないおそれがあるが、瞑想においては「痒い」と「掻こう」が、流れはあるとはいえ分節されているようにも思える。ただし、それは実際に瞑想しないと分からない、実体験に属することなのかもしれない。またニー仏さんに聞いてみなければ。