たどたどしさが活かされる道もある

さて、今日はふだんと違う教会にて大切なお仕事だ。マタイ4:1−11.自分を神から引き裂く悪魔;ディアボロス(ディアバロー)を、マリアがそうしたように神とともに思い巡らし(シュンバロー)ながら、悔い改めて説教にあたりたい。苦しむ人、泣いている人の上に主の平安。喜ぶ人に主の祝福。(朝)
礼拝で説教のあいだ、聴覚障碍者の方の横に座り、手話で同時通訳している方がおられた。その方が後で言われた。「先生の説教はゆっくりで聴きとりやすいので通訳しやすかったです」。望外の喜びで、恥ずかしそうに歩み寄って来られた聴覚障碍者の方の手を、思わずぎゅっと握りしめてしまった。
前任地では高齢者の割合が高く、また、日々の相手は幼稚園児たちだったので、だんだん話がゆっくりになっていったのかもしれない。また、あまり意識しなくても難しい言葉は省くようになっていった。「先生、よう分からん!」と、大人にも子どもにも言われながら鍛えられたのが、あるいはよかったのやもしれぬ。
それとは引き換えに、残念ながら討論のスキルというか、議論するのはとことん下手くそになってしまった。相手から「それは違う」と言われたときに「そうですねえ」以上に何か論理的に応答することができない、できないは大袈裟でも、うまくいかない。
会話のスキルというのも筋力トレーニングみたいなものなのだろう。よく使う筋肉は発達するが、使わないものは鈍ってしまうのだ。神学生時代、よくあんなにいろいろな本を引用して相手を言い負かしたりできたなあと思う。今では言い負かすどころか、そもそも相手のスピーチの速度についてゆけないだろう。
礼拝後の愛餐会で、わたしの任地が決まったことを、自分たちの牧師のことのように祝って下さった教会の方々。ただただ感謝である。夏と今回と、たった二回、説教の御奉仕をしただけなのだが、ずっと昔から知っている人々のような感じがした。