相手を活かす批判

内田樹レヴィナスと愛の現象学』(文春文庫)読了。他者に対して圧倒的に罪責を持つ自己という、関係性の不均衡から出発する倫理を、レヴィナスと自分とのあいだに師弟という圧倒的な関係性の不均衡を持つ内田が語る、だから面白い本だった。
ボーヴォワールが結局は男性の価値観の中で勝利しようとすることや、イリガライが女性性の言語を提唱してレヴィナスを批判しつつ、そうした言語を具体的に見出し得なかったことなどをもって、内田は彼女たちのレヴィナス批判から「師」を擁護する。
内田による彼女らの矛盾の指摘は鋭いし、正しい部分も多いのだろうが、しかしそこには違和感もある。ボーヴォワールやイリガライは矛盾を犯して袋小路に突入してでも女性性の言葉や実存を語らねばならなかったことを、わたしは矢川澄子が文学において「少女の言葉」を探し求め挫折していった過程に見る。
それは挫折していった過程であろうし、袋小路でもあろうし、男性性のロゴスを用いて少女を語るという矛盾でもあったであろうが、具体的な男≒澁澤龍彦、を脱しつつ包摂もされるというその過程そのものに深い意味を見出すわたしのような人間には、イリガライの無謀さえ、むしろ共感をもって読んでみたくなる。
とはいえ内田の批判は釈徹宗が巻末に解説しているように、批判や反論をとおして逆にイリガライやボーヴォワールを学びたい気持ちにもさせてくれる、そういう意味では批判の内容を超えて彼女たちに共感的でもあり、創造的な批判だとは思うのだった。わたしもそういう批判の姿勢を学びたい。
内田樹の文章を読んでいると、キリスト教改革派、関口康牧師*1のブログの文体を連想する。軽快でトゲもありながら、誰に対しても敬意を失わないテクスト。内田がレヴィナスを老師と慕うように、関口はファンルーラーを先生と慕う。軸足が外れない。必ず師を規範と仰ぎ見、耳傾け、そこから問うている。
この人たちは、教わることの快感を知っている。圧倒的な師をとおして自己の立ち位置を捉え、師の言葉を頼りに眼前に立ちはだかる問題と向き合う。まねび→まなび、のゆたかな可能性を、おおらかで辛子の効いたテクスチュアから感じる。関口先生も本にならないかな。ファンルーラーへの思いとか。
小林秀雄の『考えるヒント』(文春文庫)読了。やっぱり批評って面白いなあ。対象との遭遇から、その感受されるものの分析そして記述に至るまで、まったく受け身の自然体、鑑賞者消費者に徹するようでいて、そんな「消極的」態度にこそ陳腐な積極性を凌駕する、小林の主体性が顕れている。