ガス抜き

レヴィナスの倫理って、自己が他者に対して無限に負債を持つという非対称性から出発するんで、それを日常生活に適用しようとするとめちゃくちゃしんどいところがある。たぶんレヴィナス自身が「生き残ってしまった」という無限の負い目を感じていたんだろうなと。
NHKの広報ツイッターが視聴者批判をしたことについて)発言の内容の是非はともかく、NHKの「中の人」は、「NHKの」という肩書きを外して発言すべきであったかもしれない。というのも、好むと好まざるとに関わらず、あらゆる立場の人から放送料を徴収して(見ていなくても払わねばならない制度で)成立している、公共の放送局だから。呟きではなく番組で勝負して欲しかった。
ツイッターは憂さ晴らしの側面がとても強くある以上、それは葉書での投書とは性質が異なり、「ヘイトスピーチ」なるものを一掃することなど決してできないと思う。現実の暴力に至る前の情念のはけ口として、必要悪的な存在意義もあるのかもと。
神学生だった頃に、大学紛争時代の資料整理のアルバイトをしたことがあった。茶色くパリパリに変質した、ガリ版刷りのアジビラを何枚も見たが、それらには「●●教授死刑!」とか「でも▼▼は殺すに惜しいな」とか、今で言う「ヘイトスピーチ」が匿名で刻み込まれていた*1。あるいは汚れた公衆便所の壁に書きこまれた落書き。最近はあまり見なくなったが、猥褻なものから、思想めいたびっしりとした書き込みまで、用を足しつついろいろ拝読したものだ。そうした情動がツイッターという媒体に移動したのであれば、そういうものだと思って読んでもいいのかもしれない。
ツイッターは、意見交換の場であるだけでなく、否ひょっとしたらそれ以上に、苦しい人の「助けて!」とか、「声を出させて!」という人の、そういう情動が、時には下品な表現であったり、叫びのような書き込みに現れるのかもしれない。もちろんアジビラや落書きとは伝達範囲やスピードが全く違うが。ツイッターもだんだん年数が経って、かつてのアジビラやトイレの落書きくらいにどこにでもある風景と化したら、一つ一つの「ヘイト」にそこまで一喜一憂しない耐性がついてくるかもしれない。
わたし自身がフリーターでしんどかったときに、ツイッターの鍵アカウントでヘイトスピーチしまくっていた(宗教者にあるまじき!苦笑)ので、なんとなく気持ちが分かるのだ。もちろん、だからといって誰かを蔑む発言が許されるというわけでもないんだけど。まして差別発言は。その聴き分けというか判断は難しい。フリーター時代、いつも「死ね!」とか「アホ!」とか言ってくる厳しい先輩がいたが、彼は責任感が強い人でもあった。彼と親しく話していたときに、わたしがツイッターで愚痴をこぼしていることを告げると「ん? んなもん誰でもやってるよ。2ちゃんねる見てみろ。それくらいのガス抜きでもないとやってられんよ。」。
人を攻撃するようなツイートをするのは大人気ないし、すべきではない。それは分かっている。人間はもっと冷静になるべく成熟しないといけないのかもしれない。しかし人間の成熟を、今の社会は待ってはくれない。落ち込んだ人間を、励ます仲間もいない。みんながみんなそうではないかもしれないが、毒のある言葉から、そうした孤独が聴こえてくることもある。もちろんそれで暴威的な発言が正当化されるわけではないとはいえ。
癇癪を起して椅子を蹴り倒す行為の、その代わりとしてのヘイトスピーチの可能性。

*1:もちろんツイッターと同じことで、真面目に大学の改革を主張するビラもあった。