固有の出会い─名乗りもしない相手についてゆく

前任地時代にお世話になった先生から励ましのお電話を頂く。嬉しく、また、襟を正す思い。これだから方々に手紙や葉書を出すのはやめられぬ。
このままでは溜まるので『カラマーゾフの兄弟』録画を見る。慣れて来たらだんだん面白くなってきた。親父の絵に描いたような、時代劇の悪代官みたいな過剰なワルモンぶりが微笑ましい。ドストエフスキーも、悪があれくらい単純だったら、もっと楽に生きられただろうな。
マルク=アラン・ウアクナン“タルムードの議論について、タルムードはこう言っている。「ある人々のことば、それとは別の人々のことば、それが生ける神のことばである。」”内田樹『他者と死者』(文庫文庫)、51頁。
“弟子が師から学ぶのは実定的な知識や情報ではない。聖句から無限の叡智を引き出すための「作法」である。”同書、53頁。
“師からの召喚の本義は、それが運ぶ情報の内容にあるのではない(それは「歩み出よ」という以外の情報を持たない)。師からの呼びかけは語義的なレベルではほとんど無意味である。しかし、「外部からの召喚」は、それに聴従する弟子を遂行的な運動のうちに巻き込む。”同書、57頁。
エスがシモンに、ごく短い一言「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」を発しただけで、なぜシモンは網を捨ててイエスについて行くのか、またマタイ10:24“弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。”の意味は何かについて思索中。
シモンがイエスから信仰についての情報だけを得たかったのであれば、イエスは通りすがりのちょっとしたもの知りさん、としか認知されなかっただろう。シモンは網を捨てなかっただろう。しかし信仰の内容のあれこれではなく「信じ方そのもの」を教わる可能性がイエスによって開かれると直感したのだとしたら。
エスは神の子だ、だから超絶的な力でシモンを魅了した、とも想像はできる。ただそれだと、イエスとシモンとの出会いはあまりにも非人間的過ぎるし、魔術や催眠術と紙一重で、シモンの人格(拒否権)を無視されているようにも思える。だからマタイ10:24との関係で、その出会いを想像したい。
神の言葉についてのあれこれの知識ではなく、神の言葉への聴き方そのものを、このわたしへと開いてくれる存在者。それは自分で(自力で)開くことができない、あくまで他者によって「開いてもらう」という、師弟の関係に鍵がある。内田が言うように、弟子は師に対して、どこまでも「遅れをとっている」。この追いつけなさこそが、弟子をして師へと駆り立てる。そこで第三者が「そんな人に教わらなくても、他に●●な教わり方/知識がある」と忠告しても意味がないような仕方で出会う出来事。
卑近な言い方が許されるならば、かかりつけ医師への、患者のあの絶対的な、言わば根拠のない信頼。他の人にその医師を勧めたときに「いやー、あの医者はだめだよ。なんであんなところに行くの?」と言われたとする。説明ができない。だが、その人に従って信頼を撤回もできない。それはその患者のその医師への固有な出会いだから。他の誰の仕方でもない、その人だけの、その医師との出会い方だから。