選び取るのではなく、目が離せなくなる

自分が聖書について語る場合、聖書という他者に出会っているとも言えるが、聖書へと導いてくれる神学者なり哲学者なりという他者と出会っているとも言える。
もちろん牧師として、可能な限り先入見を排して、人々と御言葉を分かち合いたいと意識している。しかしひょっとすると「可能な限り先入見を排する」という読みの戦略自体が、自分が他者として「どうしようもなく出会ってしまった」、それこそ師と仰ぐような神学者なり哲学者なりの影響を蒙っているかもしれない。
最近内田樹ばかり読んでいるのでどうしてもエピゴーネン化してしまい恥ずかしいところもあるが、彼によると、いろいろ比較検討して師を選ぶというよりは、「この人だ!」という驚きとともにそれまでの自己完結していた自身に対する全くの「外側」が開かれる。「この人だ!」そのものは飛躍なので言語化しづらいところがある。
わたしが今、やたら内田樹を参照しては聖書に向かっていることにも、たぶん「完全に論理的な」根拠は無い。飛躍である。内田に出会ってしまい(もちろんテクストでだが)、彼を勝手に「先生」と仰いでしまい、そういうところから教えを乞うているのだろう。
ふと、わたしとは思想的立場も表出の仕方もまったく異なるのだが、ある方のあるテクストとの出会いに、共通するものを感じたのだった(といったらその方にはいい迷惑かもしれないが)。テクストへの集中というのは、たんに情報を得るという以上の、なにか「出会ってしまった、目が離せぬ」という体験が伴うような気がするのだ。